ふっふっふっ。

橋本治さんのご本♪ ほんの数日で読み終わっちゃった。

一応この本は「日本の近代文学史のようなもの」で、「はじめに」のところには「日本の近代文学史のように見えたとしても違う、別のなにか」だと書かれてある。

「別のなにか」だとしても、「日本の近代文学」をたどることによって「なにか」を語るものであるのは間違いのないところだろうから、もしも橋本さんが書いたのじゃなかったら、私ごときが手に取るはずもない作品だ。

私は活字中毒者だけれども、「日本の文学」というものがどうも苦手で、子どもの頃から翻訳ものばかり読んでて、村上春樹だって読んだことがない。

学校の授業関連で夏目漱石、芥川龍之介、中島敦をちょろっとかじって、志賀直哉は『小僧の神様』だけ、太宰治は『走れメロス』だけ、あとなんでか山本有三の『路傍の石』は読んだなぁ、という程度。(ちなみに漱石のことは「100年目に咲く女」、芥川は「人生を幸福にするために~芥川くんの言~」、中島敦については「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」、および「李陵」「悟浄出世・悟浄歎異」「狼疾記」「環礁」で記事にしています)

そんなんで「近代文学史のようなもの」についていけるのかと思うが。

橋本さんの語りなら大丈夫なのだなぁ。面白くってどんどん読み進んでしまう。

そして橋本さんに語られると、これまで読もうと思ったこともない作品が実に魅力的に見えて、うっかり「読んでみようかな」と思ってしまうのだ。

で、この1巻目は「言文一致体の誕生」がテーマ。

言文一致体といえば、教科書的には二葉亭四迷。少なくとも私はそう習ったような気がする。

この本の中でも二葉亭四迷は重要な作家なんだけど、そこへ行く前に『愚管抄』が出て来る。

鎌倉時代の天台座主、慈円の手になる歴史小説のような作品が『愚管抄』。時代的には『平家物語』と同時期らしく、慈円は『双調平家物語』の主要キャラでもある摂関家当主藤原忠通の息子。

摂関家に生まれ、出家して天台座主という、その当時の「東大の学長」のような、インテリさん。

そのインテリさんがなぜ「言文一致体の誕生」というテーマの本に出てくるかというと、彼が一生懸命に「漢文と和文の融合による“明確に論旨を通すための日本語”」を生み出そうと努力しているから。

ここで「日本語」というか「日本の文章」の歴史、というのをおさらいしておくと、そもまず日本語に「文字」はなかった。中国から「漢字」を取り入れて、「漢字の音」を「日本語の音」にあてはめて使う、ということをしたのが「万葉仮名」。

そこから「カタカナ」と「ひらがな」が生まれて、平安時代には『源氏物語』と『枕草子』という二大「かな文学」が成立する。

「かな文学」の作者がなんで女性かというと、当時の「真名=正式の文章」は「漢文」で、「仮名」は正式ではなかったから。

朝廷の正式文書というものは全部漢文で書かれていて、「仮名の文章」というのはいわゆる「女子どもの使うもの」という扱いだったわけです。

まぁ、和歌は仮名で詠んでたんだろうけどねぇ。「和歌」は公式文書ではなく、私的文書だから、別に良かったんでしょう。

ある意味「和歌」は「文章ではない」とも言えるし。

有名な紀貫之の『土佐日記』が「女が書いてるふうを装ってる」のも、「男が仮名で文章を書くなんて」という当時の風潮による(と私は習ったが、今でもそう言われているのかどうかは知らない)。

で。

慈円さんが生きている当時、本当は「漢文」を巧みに操れなければならない官吏や僧侶でさえも、「漢文」を読まなくなったらしい。

『愚管抄』の中で、慈円さんがそう嘆いている。

漢文で書かれた正式テキストを読もうという人が少なくなってしまったご時世、「漢文ではない日本語」で「入門書」のようなものを作って、「興味を持ったらぜひ正式テキストに手を伸ばしてくれ」というのが慈円さんの思いだったのだとか。

まぁそして、摂関家の子息である慈円さんにとっては、みんなにちゃんと歴史を学んでもらって、再び「朝廷こそ日本の政治形態の本来」ということを知ってもらいたかった、ということもあるようだけれど。

「漢文を読む人が少なくなっている」ことに加えて、「日本語本来の、生き生きとした表現・ニュアンスで記述したい」と頑張っている慈円さん。

もちろん今の私達にはちっともわかりやすくなんかない難解な文章なんだけれど、当時の人々にとってもわかりやすかったかどうかは疑問だろう。

何しろその当時に「論旨を通す文章」といえば「漢文」で、和歌や物語や日記・随筆ならともかく、「歴史を記述するような日本語の文章」「論文のための日本語の文章」というものはまだなかった。

ちなみに慈円さんは天台座主ですから漢文はもちろん自由自在で、和歌の名手でもあった。

そんなバイリンガルな慈円さんであればこそ、「和文で論文を!」という挑戦もできたのでしょう。

高度な漢文の理解力はある。高度な和歌の表現能力もある。しかし、これは「日常の日本語」からすれば、どちらも特殊なものである。高度な漢文の理解力があり、高度な和歌の表現能力もある人が、普段に「どんな日本語」を使って話していたのかは分からない。「論旨を明確に述べる日本語」というものがまだ存在しないのだから、普段は「面倒な話」なんかをしなかったのかもしれない。 (P49)

「和漢混淆文だから分かりやすい」などというのは幻想で、慈円の『愚管抄』は、「普段に流通するような日本語で面倒臭い話をする」という、当時的にはまだ存在しなかった前衛的な試みを結果的にやってしまっている (P49)

慈円さんの「日本語に対する思い」「新しい日本語表現の模索」と、二葉亭四迷のそれとが並べられ、比較される。

二葉亭四迷のそれは「言文一致体の確立」ということで近代文学のあり方に大いに影響を与えるけれども、慈円さんの「新しい日本語表現」がその後どんな流れを作ったかというと、どうも「流れ」は途絶えてしまうらしい。

江戸時代には出版もあって、『東海道中膝栗毛』とか『南総里見八犬伝』とかいうベストセラーもあって、「大衆が読み物を享受する」というのは世界的にも珍しいことだったのだけれど(当時の日本の識字率の高さは他国の比ではないそうな)、そーゆー「読み物」はどんな文章・文体で書かれていたんだろうか。

いわゆる漢字仮名交じり文、「和漢混淆文」であることは確かなんだろうけれども。

本居宣長の「古事記伝」なんかは「論文」の部類に入る書物だと思うんだけど、あれの原文は「漢文」ではなく「和漢混淆文」だよね???(橋本さんの『小林秀雄の恵み』で勉強したはずなのにもう忘れている(汗))。

この本の中で橋本さんは「じゃそもそも和漢混淆文ってなんなんだ?」「その概念を適用することにどんな意味がある?」というふうにおっしゃっていたりもして、なかなか「日本語の文章」というのは一筋縄ではいかない厄介な代物なのだ。

二葉亭四迷の言文一致体は、その後「日本の近代文学」を生み出す。しかし、慈円の『愚管抄』が「その後の日本語」にどういう影響を与えたかは、分からない。それでも、「こんなところにも二葉亭四迷はいたのか」と思うと、日本語の文章の厄介さ、あるいは「日本語の文章を書く」ということにまつわる根の深さ――それゆえに生じる「日本語の複雑さ」が思われて、「うーん」と唸ってしまう。 (P51)

「話し言葉」と「書き言葉」、「しゃべっている以上“日本語”というものは現に存在して、でもそれを文字で写し取ろうとするとなんか困難が生じる。簡単にはいかない」。

今はテレビでアナウンサーのしゃべる「標準語」をしょっちゅう耳にするし、江戸時代以上に出版物も多くて、私達が「日本語の文章」を目にすることは格段に増えた(というか私なんか四六時中それを目にしてないと落ち着かない)。

だから今はむしろ「書き言葉」が「話し言葉」に影響を与えて、「話し言葉」の方が「書き言葉」に近づいていってるんじゃないかなー、とも思う。

「ちゃんと読めなければ日本語の達人にはなれない」と内田センセがおっしゃってたりしたし(別記事『ハイパフォーマンスな日本語&Twitterとの相性』参照)、「話し言葉」と「書き言葉」の関係って、なかなかに複雑で面白いものなんだな。

そして話はやっと明治期の「言文一致」、二葉亭四迷の話になるんだけども、以下次回