はい、続きです。(前段はこちら

明治時代の「言文一致」、二葉亭四迷さんメインの話になります。

が。

まず、「言文一致」という言葉・概念は実際のところ何を指すのか? 「話し言葉」と「書き言葉」の一致だ、と言いたいところだけれども、そう簡単ではない。

「話し言葉」を文章にしたものとして「口語体」というものがあるからです。

「その1」のところで、「じゃあ江戸時代の『東海道中膝栗毛』とか『南総里見八犬伝』はどーゆー文体で書かれてたの?」と書いたんだけど、『源氏物語』や『枕草子』だってその当時の「話し言葉に近い文体」だったのかもしれないし、「和漢混淆文」が普通に書かれるようになった時点で、「話しているとおりの日本語を文章にする」というのは一応実現している。

慈円さんの時は「書き言葉=漢文(外国語)」「話し言葉=和文(日本語)」という、真に「話し言葉」と「書き言葉」の対立があった。

でも明治の初期にあった対立は実のところ「文語体=古典の言葉」と「口語体=今の言葉」という「新旧の対立」だった。

明治という新しい時代にふさわしい「書き方」、西洋の知識を吸収した青年達が、自分達の心情を述べるにふさわしい「文体」を模索する。それが明治期の「言文一致体の模索」だったのだ。

明治になって口語文というものが登場する。それが「話し言葉を文章にするためには苦労が伴う」ということになるのは、「話し言葉そのままでは文章にならない」という前提が隠されているからで、それはつまり「文章らしくする」ということが必要とされるからだ。 (P84-P85)

会話を録音してそれをいわゆる「テープ起こし」すればわかるけど、「話し言葉」をそのまま書いたら、「ええっと」とか「~でですね」とかよけいな言葉が多くて、文章が途中で途切れるのも当たり前、いつの間にか主語が入れ替わっているのも当たり前……。

いえ、問題はそこじゃないんです。

「話し言葉」を「書き言葉」にするのが難しいのは、「よけいな間投詞が多すぎる」「しゃべってる時はてにをはの間違いも多い」なんてことじゃなく。

書き言葉は、手紙でもなければ具体的な相手を想定しない。一方、話し言葉は常に「話しかける相手」を想定している。(中略)「―ですよね」と「-だよね」は同じ相手に使われるものではないはずだ。だから、言文一致体の創出では「語尾の敬語の有無」が問題になる。 (P85)

ああ、そうかっ!

言われてみればそうだよねー。

「手紙」が苦手だ、「コメント欄で返事する」のが苦手だ、「個別的な“話し言葉”系で書くのは苦手だ」、って自分で書いてたのに。(『書き言葉で個的になれない』『「書き言葉」は「内省言語」』参照)

「話し言葉」と「書き言葉」の間にある溝。それは「特定の相手がいるかどうか」で、日本語の場合「どのような敬語を使うか、あるいは使わないか」ということが大問題になる。

口語=話し言葉を使って「丁寧の敬語」を省くと、伝わることはストレートに伝わる。しかしその一方、「伝える相手」が限定される、それは「丁寧口調を使わずにすむ仲間内」だけを相手として限定する文章にもなる。そしてもう一つ、それは「相手というものを存在させないモノローグの文章」にもなる。 (P87)

ああ、そうですよねぇ。

ごめんなさい(笑)。

ちなみに二葉亭四迷は「です」でやろうとして、「だ」で落ち着いた派。山田美妙は最初「だ」でやろうとして「です」に落ち着いた派。尾崎紅葉は「である」派。

「地の文」に丁寧語を使うかどうか。それは作者がどこにいて、誰に向かって話しているか、ということを表現するもので、「敬語」が豊富な日本語ならではの悩みだったのですね。(と、私のこの文章には「です・ます」と「だ」が混在でございます。おほほほ)

二葉亭四迷や山田美妙が「言文一致体」を編み出してからも、しばらくは試行錯誤が続いたようで、二葉亭四迷の『浮雲』より後の樋口一葉の『たけくらべ』や尾崎紅葉の『金色夜叉』は「雅俗折衷体」で書かれている。

雅俗折衷体というのは「地の文」がいわゆる「文語」、会話のところは「口語」で書かれているものを指すのだそうで、「地の文」をどう書くか、「読者に対して作者は丁寧語を使うのか否か」というのが明治期の作家にとっては本当に大問題だったのでしょう。

今でも私のように、「書き言葉」=「丁寧語なしのモノローグ的地の文」に馴染んでしまって、いざ「相手のある文章」を書こうとすると「どう書いたらいいのかわからない」という人間もいますし。

ある意味これって、「逆言文一致体の模索」かも(笑)。「書き言葉」をどう「話し言葉」に近づけたらいいんですか!?っていう。

ま、私の問題はともかくとして。

ちょっと文学史をおさらい。(作品に貼ってあるリンクで青空文庫内該当作品に飛びます。すぐに文体を確認できるなんて便利だなぁ)

言文一致体確立の代表作のように言われている二葉亭四迷の『浮雲』と山田美妙の『武蔵野』が世に出たのは明治20年。西暦でいうと1887年で、今から120年ほど昔。

森鴎外の『舞姫』が明治23年。「石炭をば早や積み果てつ」という冒頭文からして、文語体です。会話のところもこれ、文語体っぽいですね。

樋口一葉の『たけくらべ』、明治28年。うーん、これはだらだらと1センテンスが長いというか…どこに「。」があるのだよ、おい。

翌明治30年、尾崎紅葉『金色夜叉』。『たけくらべ』よりはだいぶ読みやすそう。

そして夏目漱石『吾輩は猫である』。明治38年です。あああ、漱石先生読みやすいですねぇ。真に言文一致体を完成させたのは漱石先生じゃないの?

しかもこれは「猫の一人称」だから、「地の文」の敬語に頭を悩ませなくていいじゃないですか。猫がいちいち人間に対してへりくだる必要なんてないもんね。犬だともしかして人間に対して「~ですね、ご主人様」ってなことを言うかもしれないけど(笑)。

「猫に語らせる」って、ほんとすごいアイディアだよね。やっぱ漱石先生は偉大だ。お札(さつ)になるだけある(爆)。

明治40年に田山花袋の『蒲団』、二葉亭四迷の『平凡』があり、明治43年になると谷崎潤一郎が出てきて『刺青』。

谷崎は残念ながら青空文庫に入ってませんが、彼も明治の終わりには文壇に登場していたのですね。なんとなく最近っぽい印象がありました。

芥川龍之介は大正に入ってから。

というわけで、漱石先生が出て来ると現代の私達にも読みやすい、「確かに言文一致してるよね」という感じになります。明治38年は1905年。今から105年前。

考えてみれば、「今のような日本語の文章・書き言葉」が定着して、たったの100年しか経ってない。

学校で文法やら何やらうるさく言われ、作文を書かされ、「正しい文章の書き方」というのを教えられたけど、その「正しい文章の書き方」は“つい最近”できたばかり、だったわけです。

私が小学生だった時にはまだ、「たったの70年」くらいしか経っていなかった。

まぁだからこそ「しっかり教えなければ」というのはあったのかもしれませんが。

「正しい文章の書き方」成立後45年くらいで小学生になったうちの母などは、時々小さい「つ」や「や」の使い方おかしいです。ケータイで「ひちごさん」と打って「変換しない!」と怒ってたりします。

「日本語の乱れ」とか色々言われますが、「正しい日本語」「その表記・書き方」というのはこのように変遷していっているものなのですね

さらに言っちゃえば二葉亭四迷はその文体を模索する時に落語家(もちろん江戸の)の言葉を参考にした、というのがあって、彼のネイティブな話し言葉は「江戸弁」で、「書き言葉」もそれを元にしている。

徳川家康が江戸に幕府を開いちゃったから、「標準語」の元は「江戸弁」になってしまったけど、もしかして京都がずっと都だったら、徳川幕府が京都にあったら。

標準語は京都弁で「どすえ」と書くのが本式になっていたかも。

「気」と書いてあったら「きぃ」と発音しなくてはいけないとか。

それこそ「ひちごさん」と打たないと「七五三」に変換されなかったり。

方言話者にとっては「話し言葉」と「書き言葉」の間にはまだまだ溝があるんだけどなぁ……。


閑話休題。
 

言文一致がそれなりに形になって、「新しい文体」を手に入れて、それで明治期の青年は何を書くのか。

「文体」だけあっても、「中身」がないことには仕方がありません。

で、橋本さんはまず田山花袋の『蒲団』を紹介してくれます。

さっき青空文庫のリンクを貼りましたが、興味のある人は読んでみてください。なかなかすごい小説です。

何がすごいって、主人公のなさけなさっぷりがすごいのです。

妻も子もある中年男が若い女の子に懸想して、「向こうも自分を好いててくれる」と思いこみ、でも実のところ彼女の方は彼のことなんかなんとも思ってなくて、別に恋人がいて、それが田舎の親にばれて実家に連れ戻され、主人公の中年男は彼女の使っていた蒲団にくるまって泣く、という、「よくもこんななさけない話を思いついたな」という代物。

同じ田山花袋の『少女病(おとめびょう)』という作品も「うわぁ…」です。

ある意味大変に現代的というか、「日本の男って昔からこうだったのか…」と唖然とさせられるような。

しかも『蒲団』のこの「なさけなさ」は、その後の日本文学のあり方を決定づけてしまう。

「よくもこんな恥ずかしくてみっともないことを書いたなぁ」というのが、逆に称賛になって、

文学者である作家は、勇気をもって自分の恥ずべき姿を書かねばならない――言ってみればこれは、「文学に携わる者の心構え」みたいなものである。 (P116)

そして日本近代文学の主流は「私小説」になってしまうのだ。

「人には言いにくいこと」を多く抱えていたり、「あまりにも重すぎてそのままでは言えない」というようなものを抱えている人の方が「文学者としてのランク」が上だというのはムチャクチャな話だが、近代の日本文学ではあながちムチャクチャではない。 (P119)

この辺の「私小説」に関する橋本さんの筆は、なかなか笑わせてくれます。

ここ読んでて「だから私、日本の小説って嫌いなのよー!」ってホント思った。

「日本の小説って」とひとくくりにできるほどちゃんと読んでないけど、日本の近代文学の主流と呼ばれる作品ってなんか、うじうじいじいじした印象があるでしょ。

自分の女性関係をうだうだ書けば純文学、みたいな。

なんか、日本のマンガが発達したのって、「小説じゃちまちましたことしか書けないから」っていうこともあるんじゃないかとさえ思えてくる。

スケールの大きい、自分と彼女だけじゃない、「世界」を描くことが「文学の本流」では許されない。

そもそも日本語の「小説」というのは「私小説」を指して、「物語」は含まないのではないか、とか。

江戸時代には『南総里見八犬伝』などという一大ファンタジーも存在したのに、明治になって、「地の文の丁寧語のあり方」を探る中で「作家のあり方・立ち位置」というものが問題にされてしまって、「作家が自分のことをさらけ出す」が「文学に携わる者の心構え」になってしまった。

なんと迷惑な(笑)。

マンガでは「地の文」にあたるものが「絵」で、「丁寧語云々」を気にしなくていい、っていうのもあるよね。だから「物語」を語ることができる。

恐るべし丁寧語。

というところで、まだもうちょっとだけ続きます(笑)。(続きはこちら