まだ中島敦である。

中島敦は1941年から42年にかけて、南洋庁パラオ支庁に赴任していた。

その時の随筆というか、印象記が『環礁』という作品なのだけれど。

作品の中身がどうこうという前に、日本に「南洋庁」なんてものがあって、パラオだのサイパンだのという島々が日本の領地だったということにまず「ひょえ~」と思ってしまう。

もちろん、「そういうことがあった」ということは一応知っているのだけど、それはあくまでも「一応」の知識で、全然実感が伴わない。そこが「日本の領地」であるということは、「南洋庁」なんていう管轄組織がちゃんとあって、そこに赴任する日本人がいて、それがかの有名な中島敦だったりすることなのだな。

1922年にパラオ諸島は日本の委任統治領になって、その後日本の国際連盟脱退にともない、「日本の領土」ということになったらしい。

敦が赴任した1941年当時、パラオ諸島には2万3千人あまりの日本人が住んでいたそうだ。島民は6千5百人あまり。

日本人の方が多い。

でも、もちろん島によっては「公学校校長の家族の他には内地人はいない」とか、「巡査と公学校長だけが日本人」だったりして、「島中でこの二人だけが日本人であり、かつ官吏であるので、自然勢力争いが起るのである」らしい。

私はグアムにもサイパンにも、もちろんパラオにも行ったことがないので、写真で見るだけだけども、あの「南海の楽園」の風景の中に、日本人の校長だの巡査だのがいて、島民の子ども達が日本語の「愛国行進曲」を歌いながら学校へ通ってくるというのは、なんだかとてもシュールな気がする。

よくもまぁそんな無茶なことを。

しかし当時はそれがちっとも無茶ではなく、ごくあたりまえのことだったのだよな。

日本の委任統治の前は、パラオはドイツ領だった。

なんとなく、「お役所の人間がどこの国の者であろうと、私たちの生活やこの島の風土が変わるわけないじゃないの」で、島民達はテキトーに「コンニチハ」とお愛想して、変わらない暮らしを送っていたのではないかと思ったりする。

搾取はあったのかもしれないけど……すいません。

中島敦も官吏の一人だから、島民の家に勝手に上がりこんで休憩したりしている。

「島民の家故、別に遠慮することもないので、勝手に上がり端に腰かけて休むことにした」

おいおい。

そこが「植民地」であるというのは、こういうことなのね。

中島敦に限らず、誰だって「内地」じゃ、いくら「官吏」だからって人ん家に勝手に上がって休憩するなんてことはないと思うんだけど。

……あったのかな……。

陽光あふれる南海の楽園を描いて、敦の筆はどこか寂しい。やっぱり、悟浄と同じく「観察者」でしかない寂しさが滲み出ているように思う。

それに、美しいものはきっと、寂しいものだろう。


中に「マリヤン」という女性のことを書いた一編があって、内地の女学校に留学していたこともある彼女はたいそうなインテリ。部屋には岩波文庫が置いてあったりする。

そうして敦は「コロールの街には、岩波文庫を扱っている店が一軒もない。(中略)とにかく、この町はこれほどに書物とは縁の遠い所である」などと書く。

うちの近所に、岩波文庫を扱っている店は一軒もない(笑)。