東京へ行く前に読み終わっていたのだけれど、なかなか落ちついて感想を書く暇がなかった。

岩波文庫『山月記・李陵』に収められた「他九篇」のうちの一つ、『狼疾記』である。

「狼疾」は「ろうしつ」と読むのだろうか? 巻頭に掲げられた『孟子』の一節から取られたタイトルで、脚注によると「小を養いて、もって大を失う」ことを指摘した言葉らしい。

私が今回中島敦を手に取ったのは毎日新聞に「生誕100年」の書評特集が出ていたからなのだけれど、そこに引用されていた『北方行』の印象深い一節が、この『狼疾記』にほぼそのまま出てきた。

「地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。ところが、そのあとでは太陽までも消えてしまうという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星どもが廻っているだけになってしまう。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分たちは何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙はこのままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分たちの生れて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか」(P269)

彼=主人公の「三造」は、中島敦自身を指すと言われている。

三造は小学四年の時に学校の教師に「太陽も消えてなくなる」という話を聞いてこのようなことを考え、「神経衰弱のようになってしまった」と作中に書かれてあるのだけれど、中島敦自身に、そのような経験があったのだろう。

続けて、こんな描写がある。

「病弱な・ひねこびた・神経衰弱の・十一歳の少年は、『みんな亡びる、みんな冷える、みんな無意味だ』と考えながら、真実、恐ろしさに冷や汗の出る思いで、しばらく其処に立ち停ってしまう」(P270)

読みながら、苦笑してしまった。

自分のことを読んでいるみたいで。

死への恐怖――自分自身が“無”に帰してしまう恐怖と、世界そのものもいずれ“無に帰す”という恐怖。

もちろん、三造と完璧に同じ感覚ではないだろうけれど、そのような“恐怖”に起因する“存在への懐疑”は、私にもおなじみのものだから。

突然“死にたくない”と言って泣き出したのは幼稚園ぐらいの時だし(別に病気だったわけでも、怪我をしていたわけでもなく、自宅で本でも読んでいる最中にいきなり泣き出したらしい)、「ノストラダムス」がはやった時には、うっかりテレビの特集を見てまた泣いていた。

「みんな死んじゃうんだからいいじゃん」と当時母親は言ったが、そういう問題ではないのである。

「みんな死んじゃうからいっそうよくない」ともいえるのだ。

「人類は滅亡しうるし、地球も、太陽も、宇宙そのものも滅亡しうる」ということ、「世界はいつでも消えうる」ということが、「存在」を脅かすのだから。

他の部分も、読んでいると本当に自分のこととしか思えない。

「その他、ジイドの『地の糧』だの、チェスタアトンの楽天的エッセイなどが、何と弱々しい声々で彼を説得しようとしたことだろう。しかし彼は、他人から教えられたり強いられたりしたのでない・自分自身の・心から納得の行く・「実在に対する評価」が有(も)ちたかったのだ」(P273)

まったく、どうして自分は神様が信じられないんだろうと思う。信じられたら楽だったろうに。

「臆病な自尊心」のなせるわざだろうか? 宗教であれ哲学であれ、他人に“教えられる”のは気にくわない。自分自身で“哲学”を打ち立てたいと思う。

自分自身の頭で、納得できる考えにたどり着きたいと。

「冗談じゃない。いい年をして、まだそんな下らない事を考えているのか。もっと重大な、もっと直接な問題が沢山あるじゃないか。何という非現実的な・取るに足らぬ・贅沢な愚かさに耽っているのだ」(P273)

三造(中島敦)は自分のそのような性向に自嘲の目を向けながら、それでもやはりそれをきっぱりと捨て去ることはできない。

『悟浄出世』『悟浄歎異』の感想でも書いたことだけれど、その思索を手放したら、「我」は「我」でなくなってしまう。

時にうんざりし、そのような問いに煩わされずに生きている(かに見える)人々の中に交わりたいと思いながらも、その実「別の人間」になりたいなどとはきっと、つゆほども思っていないのだ。

「我」に対する誇りと自負。

臆病で、けれど強烈な自尊心。

ドストエフスキーの『地下室の手記』と読み比べると面白いかもしれない。あちらの主人公も「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の持ち主なのだが、ロシア人と日本人の差なのか、それとも年代の差(三造はまだ20代のようだが、あちらは40歳)なのか、印象はずいぶん違う。

『地下室の手記』の主人公には「ここまで来れば天晴れだ」と思わされるが、『狼疾記』の方はほろ苦いというか、青いレモンのような、痛々しさが感じられる。

苦笑しつつ読んで、「でも別に、それだって生きていけるよ」と言ってあげたくなるような。

「存在の不安」に足を取られて「現実的な」問題に向き合えない己のことを「小を養って大を失う」と三造は自嘲しているけれど、「現実的な」問題は“大”なんだろうか? 「存在の不安」は本当に取るに足らないことなんだろうか。

非現実的なことばかりに頭を悩ましていると、現実的な問題の大抵は「つまらないこと」と思えるのだし、考えようによっては幸せかもしれないのに。

いじわるな友達も、どんどん出世して自分を追い抜かしていく同僚も、「みんな亡びる。みんな冷える。みんな無意味だ」と思えば、そうそう憎んだり羨んだりすることもない。

「みんな亡びる」からこそ、たまさかのこの存在が愛おしくもなるものだ。