おととい、『罪と罰』のラスコーリニコフと『赤と黒』のジュリアンを挙げて、「二人とも自尊心が強すぎて」というようなことを書きました。

「自尊心」という言葉を聞くと、常に「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という中島敦の『山月記』の一節が頭に思い浮かびます。
『山月記』は確か高校の国語の教科書に載っていたのですが、その時にこの「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言い回しがことのほか私の心を打ちました。
「おおっ、なんてうまいこと言うんだ」と思って。

確か、試験問題にも出たような気がする。
「尊大」と「自尊心」、「臆病」と「羞恥心」がペアになる
のが普通の感覚なのに、なぜここでは逆になっているのか、どういう意味か書きなさい、みたいな。
試験じゃなくて、授業中に訊かれただけだったかもしれないけれど。

その言い回しに、「ああ、それってまさしく私じゃないの」と思った高校生時代なのだけれど。
さっきネットの図書館「青空文庫」ですごく久しぶりに『山月記』を読んでみたら、「やっぱりまさしく私じゃん」と思って苦笑してしまいました。
ははは。

『山月記』の主人公は「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が昂じて発狂し、虎になってしまう。
自尊心が強すぎて、「下級官吏なんかやってられっか」とさっさと職を辞して、山奥に引きこもり、「詩家としての名を死後百年に遺そう」と詩作にふける。
でも残念ながらちっとも詩で有名になれないまま生活に困窮し、しょうがなくまた地方の下吏になる。誇り高い李徴にはどうにもその境遇が耐え難く、発狂して、なんでか虎になってしまうのですね。

「自分はこんなとこでへいこらしてる人間じゃない」と思って引きこもり、ひたすら売れもしない文章書いてるわけですよ。ああ、李徴くん、とても他人とは思えない(笑)。

虎になった李徴はたまたま行き会ったかつての親友に向かって、「己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった」と「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を語ります。

「才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ」

あああああ、それってやっぱり私のことでは(爆)。

高校生当時、私はすでに小説を書いていて、作家になるつもりでいました。まだ高校生だったんで、「なれる」と思っていたんでしょうけど、でもこの話を読んで「まずい。これは私じゃないか」と、自分の中の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に気づかされてしまった。

そして案の定ただの引きこもり主婦ブロガーに育ったわけですが(笑)、しかし虎にならなくて良かったと言うべきでしょうか。
まだこれからなるのかな(爆)。

いっそ虎になっちゃうぐらい徹底してればすっきりするのに、という気もします。
自尊心も羞恥心も、李徴に比べればまだまだ中途半端で曖昧なのかもな、と。

実際には何だって「バランスが取れている」方がよくって、「ほどよい自尊心と羞恥心」でまっとうに「中ぐらいの道」を生きていくのがいいのでしょうけど、でも「極端に生きてみたい」という願望は常にある。
一回きりの人生なんだもの。
丁か半か、大博打を打ちたい気はするよね。
自分の中の「虎」を解放してみたいというか。

「小心な自尊心」しか持ち合わせてないんで、できないけど(笑)。

それにしても。
ジュリアンにはフーケ、ラスコーリニコフにはラズミーヒン。李徴には袁サン(漢字が出ない)。
自意識過剰で人付き合いの悪い彼らに、なぜか一人だけいる「いい友達」。

話の都合上……ではなく、本当に「そういう人」には「そういう友達」がいるものなのかしらん。