本
『李陵』/中島敦
今年は太宰治の生誕100年らしいのだけど。
中島敦も、今年で生誕100年なのだそうだ。
太宰治と中島敦は同い年。そして、先日98歳で亡くなった義祖母は、彼らと同世代だったことになる。
そう思うと、「昔の人」とか「歴史上の人」ではなくて、「最近まで生きてても不思議はなかった身近な人」なのだな。
太宰治は40歳になる前に自殺しているし、中島敦も33歳で病没。
「身近な人」であってもおかしくはないのに、60年も前に亡くなっているわけだ。同じ時期に生まれて、片や平成まで生きたうちのおばあちゃんと、昭和20年前後に亡くなった二人。
あらためて、人の一生というのは――人の時間というものは、不思議なものだと思わされる。
私は、太宰治は『走れメロス』しか読んだことがないし、中島敦は『山月記』しか読んだことがない。
どちらも国語の教科書に載っていたから読んだだけで、自分で選んで出会ったわけではない。どっちが好きかと言われれば、断然『山月記』の方が好きだった。
『山月記』については以前、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という記事で言及している。
学生時代、『山月記』に出てくる「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言い回しにいたく感激し、また中島敦の漢文調の美麗な文章にも憧れたのだけれど、他の作品まで読もうとは思わず20年あまりがすぎ。
5月の毎日新聞の書評記事で、今年が敦の生誕100年であることを知った。
そして、その記事に引用されていた『北方行』の一節を読んで、「ああ、やっぱりこの人、私と同じこと考えてる」って思った。
「自分が死ぬのはかまわないけれど、太陽までもが死に絶え、暗黒の宇宙になるのは許せない」というようなことを、作中人物がしゃべるのだ。
「(それならば)自分達の生きていることも、人間てものも、宇宙ってものも何の意味もないじゃないか」
うん、本当にね。そう思うよ。
虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す。でも皮も名も結局いつかは消えて、この世界すべてが無に帰してしまう。
自分が死んでしまうことはまだ許せても――他の人だってみんな死んでしまうんだし――世界すべてがいつかは死に絶え、“無”になってしまうというのは本当に、本当に怖ろしいことだ。
“存在している”ということの、理不尽。
足元にぽっかりと口を開ける、虚無の深淵。
引用されていたその一節だけを読んで、中島敦を好きだと思った。
ちゃんと読んでみようと思って、岩波文庫の『山月記・李陵』を手に取った。
33歳で死んでしまった敦の作品は、とても少ない。作家として立つ決心をした矢先、彼は死んでしまっている。
彼の最高傑作と言われているらしい『李陵』も、発表されたのは死後。さぞ無念だったろうな。もっともっと、書きたいことがあったろうに。
『李陵』は、確かに素敵だった。
読んでいて、泣きそうになった。
『山月記』と同じ漢文調の、抑えの効いた、むしろ淡々とした語り口なのに、人物のやるせない心情と、容赦なく人に襲いかかる運命の理不尽とが胸に迫ってきて。
李陵というのは、中国の漢の時代の武将で、たった五千の歩兵を率いて匈奴討伐に赴く。もとより勝ち目はなかったのに、彼の才能を妬んだ年上の武将のよけいな干渉によりさらにひどい状況になり、李陵は匈奴の手に落ちる。
自害するでもなく生きたまま匈奴の虜囚となったことで、漢の都では李陵はもともと裏切っていたのだ、というような言われ方をされて、妻や子が殺されてしまう。
その時ただ一人李陵をかばったのが、『史記』の作者として有名な司馬遷。
司馬遷は、李陵をかばった罪で、「宮刑」に処される。宦官と同じようにされてしまうのだ。
死刑になる覚悟ならあった司馬遷、自身が「男」でなくなってしまったことにひどいショックを受け、それでも『史記』を書き上げるという一念だけでその後の人生を生きていく。
ここの、司馬遷の心情の記述もすごい。
「ようやく、生きることの歓びを失いつくした後もなお表現することの歓びだけは生残り得るものだということを、彼は発見した」(岩波文庫P34)
さもありなん。
中島敦自身が、やはりそのように感じていたんだろう。「表現する歓びがだけは生き残るだろう」と。
匈奴の虜囚となった李陵は、風の噂で家族が惨殺されたことを知り、漢に帰ることも、漢に忠義立てすることもやめて、匈奴の地で生きていくことを選ぶ。
「それはやむをえなかった」と自身の行動を正当化していた李陵の前に、もう一人の匈奴の虜囚、蘇武という男が現れる。
蘇武は李陵と違って、匈奴の王に降伏せず、その援助も受けず、ぼろをまとい、困窮のうちに暮らしている。その姿を目の当たりにした李陵は自身の足元が揺らぐのを感じる。
「飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節が竟(つい)に何人にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむをえぬ事情ではないのだ」(岩波文庫P50)
その後、「誰にも苦節を知られぬまま異郷の地に死んでいく」はずだった蘇武は、漢に戻ることができる。
「天は見ていたのだ」と思う李陵は、自分にも「漢へ戻るチャンス」が巡ってきても、もはや戻ることができない。
嗚呼。
「己の苦節が誰にも知られなくても」。ここが、肝心のところだ。たとえ報いが受けられなくても、努力し続けることができるのか。信念を貫き通すことができるのか。
報われることを、望んではいけないのだろうか。
『山月記』の李徴は、自身の才能が世に認められることを望み、報われないことに負けて、虎になり果ててしまった。
解説のところに、中島敦がこう書いていたことが載っている。
「世界がスピノザを知らなかったとしたら、それは世界の不幸であって、スピノザの不幸ではない、という考え方は痩せ我慢だと思いますか?」
自身の才能への自負と、それが知られぬままに終わるかもしれないという危惧、そして、「知られぬ」ということは結局「才能がない」ということなのかもしれないという懼れ。
そうして、「知られたところで、結局世界は無に帰してしまう」というこの世の理不尽。
作家としての確固たる地位を築く間もなく33歳の若さで没した中島敦。
自身の生誕100年を告げる書評記事に――60数年を経た後にも作品が読み継がれていることに、天国の彼はどのような感慨を持つのだろうか。
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