全7巻の『ひらがな日本美術史』もとうとう6巻目。ついに江戸時代が終わってしまいます。

「江戸時代が終わる」ということは、「日本的」なものが「古い」と一蹴され、「西洋に追いつけ追い越せ」の時代が来るということで……さびしいですねぇ。

なんか、読んじゃうのがもったいないな、と思いながら、でもやっぱり面白くて楽しくてどんどんと読み進んでしまった6巻でした。

表紙は言わずと知れた葛飾北斎『富嶽三十六景』。

北斎の章は3つもあり、歌川国芳の章も3つ。そして喜多川歌麿の春画や国貞等の浮世絵が言及され、いよいよ幕末になって西洋風の絵画が登場、小田野直武『不忍池図』。渡辺崋山の『鷹見泉石像』があって、明治まで生きて発狂してしまった浮世絵師月岡芳年に、最後は歌川広重『東海道五十三次』。

で。

実は広重は最後ではなくて、この本の一番最後には「縄文土器」の章がある。

こーゆーところが、橋本さんだなぁと思って嬉しくなるんだけど。

なんで江戸時代が終わって明治になる前に、「縄文時代」が来るのか?

それは、それまでの――明治になって始まる「近代」の前にある、「日本的」なものはすべて「弥生的」である、ということを言うため。

ああ、そうかぁ。そうなんだぁ。

この、最後の「弥生的ではないもの」と題された章はほんとに、良かったなぁ。是非多くの人に読んでほしい。

小田野直武の『不忍池図』を扱った章では、

「陰影による立体表現」なんかなくても、尾形光琳の燕子花(かきつばた)や伊藤若沖の鶏は、十分見事に生きている。別に、「本式の西洋」なんかなくてもいいんじゃないのかと、私は思う。(P142)

と書かれてあって、まったくだな、と大きくうなずいてしまった。

1巻からずーっと日本の素晴らしい美術を見てきて、せっかく「いいな」「素敵だな」と思ってきたのに、この後「西洋」が入って、まったく違う方向に行ってしまう。

「それまで」は「古い」「そんなんじゃ西洋に勝てない!」で否定されてしまうんだもの。

同じ142Pには、

そんなわけで、「ちゃんとした西洋」が近づいて来る江戸時代も終わりにいるこの私は、なんとなく「つまんないなァ……」と思うのである。

という一文もある。

ほんとだよぉ。来なくていいよ、明治維新(笑)。

まぁ、江戸幕府が制度疲労を起こしていたとか、西洋の軍事力の脅威はすごかったとか、わかるけど、でもなぁ、何も全部否定しちゃうことはなかったのになぁ。

大事な「文化」の根本のところを全部否定して、それでいて「天皇制」だけ変に過去から拾ってきて、あげくに戦争に突入して……。

明治の呪縛って、すごいと思う。

明治政府が作り上げてしまった「国家観」「歴史観」っていうのは、今でもずっと祟ってるものね。

「それ以前」の否定があまりにも成功しすぎて、「それ以前」との断絶があまりにも大きすぎて、「アメリカかぶれをやめよう!」とかいう時に、明治までしか帰れない。それ以前の、真に「日本的」なところへ戻っていけない。

「それ以前」をずーっと遡って、色々なことを知れば、ことさらに「愛国心」なんか言い立てなくても、「日本って素敵だな」は素直に思えるし、そりゃあ軍事力では負けてたかもしれないけど、「文化」は全然負けてないし、そもそも「文化」に勝ち負けなんかなくて、「おたくさんのそれもすごいが、こちらにもこんないいものがあるんですよ」ですむことがわかる。

西洋の近代画は「浮世絵」から多大な影響を受けたのに、肝心の日本の「近代画」は浮世絵なんか全然無視するんだもんなぁ。

どうよ、ホントに。

この6巻、「ああ、日本が終わってしまった」という感慨すら、持ってしまいました。

もう7巻は読みたくないな、この先はどうせ「日本美術」じゃないし、ぐらいに思っちゃう。

このシリーズを読む前から、日本の近代絵画ってピンと来なくて、「好きだ」と思えなかったんだけど、それは私が「弥生人」だったからなのね(……ホントか?)。


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