2006年に出た『双調平家物語ノートⅠ権力の日本人』がめちゃめちゃ面白かったので、続編『院政の日本人』の出版を今か今かと心待ちにしていた(続編のタイトルは既に『権力の日本人』の最後で告知されている)。

一体いつ出るんだ、まだ出ないのか、と本当に待ち焦がれ、コゲコゲのアッチッチになっていたのだ(注:この表現はGACKTさんのMCから拝借している。勝手に使ってごめんなさい)。

『権力の日本人』も含め、「双調平家物語ノート」は雑誌『群像』に連載されていて、連載自体は2007年の5月に終わっている。「連載が終わった」ということは知っていたから、よけいに「いつ単行本になるんだ?まさかもう出ないってことはないよな?」と心配になるぐらい、待って待って待ち続けていた。

連載終了からは2年、『権力の日本人』からは3年。

いくら面白いたって、もう中身忘れてるぞ~~~。

しかし。

忘れていても面白い。

読み始めると止まらない。

『権力の日本人』も2段組で352頁の大部の書だったのだが、今回はあとがきを含め437頁である。

うぉぉぉぉぉぉ。

連載原稿に「大幅加筆」と書いてあるし、系図や年表の多い本であるから、その辺のチェックも相当大変だったのだろう。単行本になるまで2年もかかったのもむべなるかなと思える。

長編好きの私としては、この分厚さが非常に嬉しい(持ち運びには不便だが)。

どんどん読んでもなかなか終わらず、楽しい橋本さんのお話をずっと楽しんでいられる。

と言ってももう178頁まで読んでしまった。

ああ、あと259頁しかない。


本当なら、最後まで読んでから感想を書くべきなのだろうけれど、それだけの分量があると、最初に何が書いてあったかを忘れてしまうし、引用しようにもどこに書いてあったかを探すのが一苦労である。

なので、とりあえず178頁までの感想をここで記録しておく。

正直178頁でも「何が書いてあったか」をおさらいするのは大変である。仕方がない、もう一回最初まで遡り、印象的な個所に付箋を貼って頭の中を整理。学校にレポートでも提出するのか?って感じだったが、それをやりたくなるだけのものが、この本にはある。

『双調平家物語ノート』と銘打たれているように、この本には橋本さんが『双調平家物語』を書くにあたって調べ、考えたことが書かれている。

(ひゅうがが以前書いた雑文『双調平家物語/橋本治』『双調平家物語完結!』『権力の日本人』を読んでいただけると、この後の文章がよりわかりやすくなるかもしれない。ならなくても怒らないでね)

橋本さんの『平家』は、中国の話から始まって、やっと舞台が日本になったと思ったら、聖徳太子や蘇我蝦夷が出てきて、「大化の改新」。

「むしごめくう大化の改新」(645年)から平氏滅亡の壇ノ浦(1185年)までは600年ぐらいある。

もともと橋本さんが『双調』を書き始めた動機は「清盛はそんなに悪い奴だったのか?」という疑問にあって、清盛の置かれた当時の状況を理解するためにはその前の状況(いわゆる摂関政治華やかなりし頃)を理解せねばならず、「その前」を理解するためには「その前のさらに前」を理解せねばならず……。

で、大化の改新(と、それ以前の蘇我氏の時代)まで遡ってしまったらしい。

橋本さんは、歴史に登場する人物の年齢表を1年刻みで作ったらしい。なんと700年分も!

『双調』を読んでいる時に、「一体これを書くために橋本さんはどれだけの資料にあたり、どれだけの苦労をしたのだろうか」と思ったのだけれど、700年分の年表をご自分でお作りになるとは。

さすがというかなんというか、ホントにすごい。

人物の年齢の入った年表と、そして「父方」だけでなく「母方」をも書き込んだ系図。

普通の系図は「男系」を主として作られるので、「その男の母は誰か?」「その男の母の父は誰か?」ということがよくわからない。

摂関政治というのは、藤原氏が天皇の母の父(つまりは天皇の母方の祖父)であることによって実権を握ったシステムであるから、「その男の母の父は誰か?」がわかる系図でなければ、意味がないのである。

それをやって遡っていくと、摂関政治以前の「天皇家」においても、「その天皇の母は誰か?」が意外な重要性を持っていることがわかったらしい。

「天皇の父」は、もちろん「前の天皇」であることが多い。

藤原氏が「后を出す家」となる以前、「天皇の母」であり「天皇の后」となる女性は「皇女」だった。聖武天皇の后となった光明皇后は藤原の娘で、彼女が「初の臣下からの后」だったのである。

中大兄皇子の父は舒明天皇で、母は「大化の改新」当時の天皇である皇極天皇。皇極天皇は欽明天皇のひ孫で、彼女は厳密には「皇女」ではないけれど、「皇統の女性」だった。

『権力の日本人』も『院政の日本人』も、「天皇制」というものについて目から鱗を落としまくってくれる書物で、読んでいると「一体今の“愛子様問題”って何なの?」と思ってしまう。

皇極天皇の前の前がかの有名な推古天皇で、彼女は欽明天皇の皇女。皇極天皇は弟孝徳天皇亡き後再び皇位につき、斉明天皇となる。その後中大兄皇子が天智天皇となり、次がその弟の天武天皇で、天武天皇が亡くなるとその后であった持統天皇が皇位につく。

持統天皇は「天皇の后」でもあったが、「天智天皇の皇女」でもあった。

……という話を延々としていくと、いくら書いても終わらなくなってしまうけれど、「皇女」の力というのはすごくて、一旦皇統が絶え、かなり昔の天皇の孫王みたいなのをひっぱり出してくる時には、「その正統性をより強固なものとするため」嫡流筋の皇女を后とし、その后から生まれた皇子を次の天皇とする約束(つまりは皇太子に立てるということ)をして、やっと豪族達から「天皇として認めてもらえる」ということがあったらしい。

この場合、次の天皇になる皇子は「傍流の天皇である父の子」であることよりも、「嫡流の皇女である母の子」であることをより重要視されているのだ。

「母が誰か」が重要であったればこそ、その後の「藤原氏の后」というものの重要性も増して、「天皇の母の父による実権掌握」もたやすく起こったのだろう。

しかしそれにしても不思議というのは、「嫡流が絶えたらその辺で地味に暮らしていた忘れられた孫王を引っ張り出してくる」というところ。

今の愛子様問題も、「彼女が天皇になったっていいけど、その夫はどこから持ってくるんだ?」ということがきっと一番の問題なのであろう。

嫡流の皇女はいて、彼女は直接天皇にはならないけれども、彼女の夫となって皇子の父となる男はやはり「臣下」ではダメで、「皇統につながる男」でなくてはいけない。

「その天皇の母は誰か?」が重要であるなら、「父」は「それなりに上位の貴族」であればよしとしてもよさそうなものなんだがなぁ。

日本史の中で唯一「女性の皇太子」となったのが孝謙天皇で、彼女はその後重祚して称徳天皇となり、僧道鏡に狂って墨染めの衣(仏教装束)で神事を行ったりする。きっと彼女の無茶がみんなのトラウマになって、その後「女帝」も「女性の皇太子」も認められなくなってしまったのだろうけれど、どうして当時の人間は彼女を結婚させなかったんだろう? 誰かしかるべき「孫王」でも連れてきて、とりあえず皇子を生ませておけばよかったんじゃないのかな。

まぁ女性として、「とりあえず跡継ぎを生ませろ」って考えに与したくはないけれど、「皇女」は「天皇の母」になれるが、「天皇になることを定められた皇女はもう“妻”にも“母”にもなれない」というこの規定は何なんだろう?

そもそも、皇統が絶えたら「いいチャンス」とばかり「これから俺が日本を治めるぜ!」ってヤツが出てきてもよさそうなのに、日本ではそうはならない。「忘れられた孫王」が皇位につくことに難色を示す大和の豪族達は、「皇族のうちの誰を天皇に推すか」でケンカはしても、「この際だから天皇家はもううっちゃって、俺たちの中から新しい統治者を出そうぜ」っていうケンカはしない。

鎌倉幕府ができても、室町幕府ができても、織田信長でさえも、「天皇も朝廷もいらないじゃん」とは言わないのである。

「日本ではすべてが“大前提”の中に収まっている」と橋本さんが書いているが、日本人というのは一旦できあがった「前提」を崩すのが、本当にイヤなのだな。

……というところで、まだまだ書きたいことはあるのだが、長くなったので今日はこのへんで。


【続きは以下から】

『院政の日本人』その2・能力と資格

『院政の日本人』その3・父子の対立

『院政の日本人』その4・日本のいぢめは根が深い

『院政の日本人』その5・人間のいる歴史