「日本ではすべてが大前提の中に収まっている」という話である。

鎌倉幕府ができても、室町幕府ができても、江戸幕府ができても、やっぱり「天皇と朝廷」という大前提は生きていて、

有名無実になっても、大前提は存在し、「大前提を有名無実にしたものが大前提を支える」というへんてこりんなものになる(P154)

なんとなく、それが「日本的」というものか、という気がしてしまうが、橋本さんは後白河法皇を「最も日本的な絶対君主」だと言う。

後白河法皇というのは、清盛時代の上皇で、清盛をうまい具合に利用しながらさっさと捨ててしまった、源平の争乱の黒幕というか元凶というか、『双調平家物語』を読んでいると「この人ホントに…」と頭を抱えてしまう困った人である。

院政の時代は後白河法皇以前に始まっていて、天皇ではなく「その父である上皇」が最大の権力者となる時代なのであるが、その最大の権力者は

「最大の権力者である自分」を中心に置くような形で、権力システムの改編や再編を考えなかったのである。(P166)

システムは従来のままで、そのシステムを逸脱したものが最高の権力を握り、「ルールを変えろ」ではなく「ルールを曲げろ、解釈し直せ」と言う。

そしてその最高の権力者は「新たなルールを作る」わけではないから、何か不都合が起こっても責任を問われない。もともと「システムの外」にいる人間ではあるし。

この、「誰が一番偉いのかがわからない。よって誰も責任を取らない」というのが、なんとも「日本的」で、その根は深いのだなぁ、と嘆息する。

「院政」がはっきり始まるのは後三条天皇の時らしいのだけど、その以前、「律令国家」日本の体制が整ったところで、もう「院政のようなもの」は行われている。

律令の制定を命じたのは天武天皇で、持統天皇の時に飛鳥浄御原令が出来上がり、「大宝律令」が完成したのは持統天皇の孫である文武天皇の時。

文武天皇は15歳で即位していて、上皇となった持統天皇が年若い天皇を補佐していた。

天皇と上皇のツイン・トップ体制は、明文化される以前、持統上皇と文武天皇の上に実現している。このツイン・トップは「能力と資格」なのである。(P93)

年若い、まだ政治の実務能力を持たない、皇統の正統性(資格)だけを持つ文武天皇と、天武天皇の后であった時代から夫を助け、皇位につくことによってさらに磨き上げられた持統天皇の「能力」。

年若い天皇の未熟を補完するために律令という「システム」を完成させてしまった持統天皇は、結果的に「天皇には実権が宿らない」を推進させてしまったのである。

「能力は体制が補完する――だから、天皇は資格だけで天皇になれる」という、その後の「常識」が出来上がるのである。(P94)

首相がコロコロ変わっても日本という国自体がたいして損害を被らないのは、きっと持統天皇のおかげなのだろう。

内田先生がblogに書いておられたと思うが、「日本にはリーダーはいらない。リーダーがいなくてもちゃんと機能するシステムを作り上げてしまったから」。

いいんだか悪いんだかなぁ。


持統天皇の父である中大兄皇子は、「大化の改新」の時20歳だった。

彼は蘇我氏を滅ぼしても皇位にはつかず、母皇極天皇の弟であった孝徳天皇が皇位につく。孝徳天皇が亡くなってもまだ中大兄皇子は天皇にならない。上皇となっていた皇極天皇が重祚して斉明天皇となる。

中大兄皇子が「天智天皇」になったのはやっと43歳になってからなのだ。

大化の改新から23年後。

橋本さんは、その23年を「中大兄皇子が“実務経験”を積んで“実質を備えた最高権力者”になるために必要だった時間」だと言う。

蘇我蝦夷殺害という「テロ」を遂行してしまった中大兄皇子は、

「テロリズムの実践と、新政治体制の実現の間には距離がある」ということを、理解していたのである。(P89)

だから、彼は皇子である大友皇子に「政治の実務経験を積ませるべく」太政大臣という役職を与えた。

天皇であるには――「国の最高権力者」であるためには、「皇統に生まれた」という「資格」だけでなく、「政治を行う実際の能力」が必要だ、と彼は考えていたのだ。

テロリズムの実行者がそれだけの深い理解を有していたという事実を、我々はもっと深く受けとめるべきだと思うし、日本の政治のごく初期段階にそういう知性を持つ人がいたことを、誇りに思うべきだと思う。(P89)

「むしごめくう大化の改新」としか知らなかった“歴史”が、一気に血の通ったものになるなぁ。


しかし中大兄皇子によって「経験を積んでよりよい天皇となるように」と言われた大友皇子は結局皇位につけず、天武天皇の後を継いだ持統天皇によって「能力と資格」は分断されていく。

良かったのか悪かったのか……うーん。