橋本治さんの『院政の日本人』、全437頁、読み終わってしまいました。

ああ、終わっちゃったよ……。

「その3」を書いてから少し間が空いてしまいましたが、それは読み終わるのがもったいなくてちまちまとしか頁を繰っていなかったから、ということもあるのです。

それぐらい面白かった。

後半はやっと平家も登場して、いかに貴族達が平家を追い込み、木曾義仲を追い込んでいったか、いかに頼朝に「戦う気がなかった」か、ということを詳しく解説してくれます。

『平家物語』の諸本や『吾妻鏡』の記述を付き合わせ、その齟齬から「実はこうだったんではないか」と推理する橋本さんの手腕にはほんとぞくぞくさせられる。

『吾妻鏡』って、昔学校で名前だけは教えてもらったけど、「鎌倉幕府の正史」だったんだねぇ。

鎌倉幕府の正史だから、義経の活躍なんかたいして載ってなくて、義仲が動いた年の記述なんか丸ごと欠落していて。

橋本さんはそこのところを「『吾妻鏡』が嫉妬する」と表現する。

歴史が「勝者のもの」というのはよく言われることだけれども、ある時代の政府が書かせた「正史」なら、「その政府にとって都合の悪いこと」は書かれなかったり、歪められたりしてあたりまえ。

千年近く後の時代を生きる私たちにとっては、それでもその「脚色された史料」が歴史を知る重要な手がかりで、「平氏の暴虐」を言われれば「そうか」と思うし、「木曽の山猿」と言われればやはり「そうか」と思ってしまう。

『双調平家物語』を読んだ時に、「清盛は悪くなかったのになぁ」ってすごく思ったし、最後に語られる「義仲の悲劇」ももう本当に気の毒というか、彼を追い込む「都のありよう」が腹立たしくて腹立たしくて。

今回この『院政の日本人』の最後、義仲について書かれた個所を読んで、あの時の悔しさがまたふつふつと蘇ってきた。

「木曾義仲は、早過ぎる人物である」と橋本さんは書く。

「進むべきか、進まざるべきか」の岐路において、「不用意に進まない現実的な選択」をして、それが困難になった時には「進むに値する理由」を求めた。「自分一人の生存」をまっとうするためではなく、「自分と共に存在する人のあり方」も考えて。別に珍しいことではない。しかし、彼以前に、彼の生きた時代に、彼のような人は一人もいなかったのだ。(P428)

義仲は「部下がいなければ自分もない」ということを自覚して、家臣団のありようを大事にする。一方の頼朝は実際に戦場に赴くこともなく、平和な鎌倉で「神や仏に祈る」ということをやたらにやっていたらしい。

流人として伊豆に流され、そこで大人になった頼朝は「東国武者」では全然なくて、都の貴族と変わらないメンタリティの持ち主だった。

たまたま「源氏の嫡流」の生き残りだったから、彼にお鉢が回ってきただけのこと。

本当に、頼朝の挙兵というか、「動きの最初」のところとか読んでると、「こんななさけない始まりで、鎌倉幕府ができちゃったのかぁ」って思うもんね。学校で習った華々しい「幕府誕生」と全然違うやん、って。

まだあの時代は「武者の一族ではあっても都と繋がる貴族的な人間」の方が、完全な「武者」であるより「上」だったんだろうから、「貴族的な頼朝」の、「貴族的な権威」でなければ東国武者をまとめることはできなかったのかもしれない。

戦闘における実質的な強さよりも、政治的な強さでないと。

鎌倉幕府がすぐ北条のものになってしまうのも、そういうことなのかなぁ、とか。

都では平家が逐われて、鎌倉には源氏による「幕府」ができるけど、実のところ「源平の戦い」っていうのはないに等しくて、平氏を逐いたかったのは都の貴族で、頼朝の源氏に平氏はたいした意味を持たない。

平氏だって、特に源氏を敵視してたわけじゃないんだし。

都の貴族は成り上がりの平氏がイヤで、でもその平氏を追い出してくれた義仲もイヤで、義仲をも精神的に追い詰めて殺してしまう。

「都はヤなヤツ揃いだ」って、橋本さんが書いてはったけどね。

「武力」じゃなくて、ねちねちといぢめるところがもうホントに、都の貴族ってヤなのよ。

清盛のお父さんなんて、その出世を妬んだ貴族達に「夜討ち」を計画されるんだよ。「あんな成り上がり、気に入らないから襲撃しちゃえ!」って、すごくない??? それも正々堂々やり合うんじゃなくて、「夜討ち」だもんね。

日本の「いぢめ」の根は深すぎる。

既得権益に生きる貴族達は自分の権利を脅かすものを認めないし、入り込んでくる「異分子」を認めない。

清盛が「暴虐の人」になってしまうのも、貴族達が彼を「上に立つ者」とは認めないからで、「知性を持った新しい人間」である義仲は、「都の常識を何にも知らない山猿」と貴族達から貶められる。

「都の常識」が「正しい」と限ったわけでもないのに。

平家滅亡のちょっと前に「悪左府」と呼ばれる藤原頼長という人がいて。この人に「悪」がつくのは、「大勢を無視して、たった一人でも本質論を主張するというところが、頼長の暴力性ではある」から。

大勢順応の日本では、古来から「自分の意見を強く主張する」は「暴力的」に近いのである。(P251)

うわぁ……。

なんだかホントに、うんざりするなぁ。

頼長という人は摂政関白を出すあの藤原家の人で、貴族達の中では最上位に位置するお坊ちゃん。まぁだからこそ「大勢を無視して主張する」もできたのか、というところはあるんだけど、彼を混乱させたのは「自分が仕えるべき朝廷の長」が誰なんだかわからない、という当時の状況。

すでに院政は始まって、天皇の率いる朝廷とは別に「院の御所」と呼ばれるところがあり、さらに頼長の時代には「天皇の庇護者たる母后」というものもいる。

摂関家は本来「天皇に仕える」名家で、その職務も「天皇の朝廷」を舞台にしている。でも、実質的な権力は天皇ではなく上皇にあったり、天皇の母后にあったりする。

「誰が一番偉いのか」がわからない。

責任の所在が曖昧になっている。

……日本って、やっぱり……。

清盛を引き上げた後さっさと捨て去る後白河法皇も困った人なんだけど、頼長の時期の鳥羽法皇って人もなかなかに困った人で、「システム」を変えずに、準合法的なやり方で「母后の権力」というものを割り込ませて、すべてを曖昧にしてしまう。

システム変えちゃえばいいのに、それはしないんだよねぇ。

根本的に変えようとしたら色々大変で妨害もあるに決まってるから、慎重な鳥羽法皇は持って回っためんどくさい方法でじわじわと「気がつけばなんか変なことになっている」という状況を作り出して、誰も「違法」とは言えない形で望みを実現しちゃうんだ。

「人間関係をオモチャにして、みんなで崇徳天皇を騙そう」とかいう話も出てくる。

崇徳天皇って、鳥羽法皇の息子ってことになってるんだけど、実は鳥羽天皇の父の白河法皇の子どもなんだよね。

白河法皇は自分の養女にしていた璋子(後の待賢門院)と愛人関係にあって、それなのに璋子を息子の鳥羽天皇の后にして、璋子は鳥羽天皇の皇子として白河法皇の子・崇徳天皇を生む。

……もう昼メロ以上のドロドロです。

鳥羽天皇にとって崇徳天皇は自分の息子ではない。でも崇徳天皇は鳥羽天皇を「父」だと思っていて……ああ、もう、ホントにねぇ。