律令国家を整備・完成させたのは「女帝の時代」であった。

「その母は誰か?」が重要だった摂関政治の時代、「父としての天皇」は非常に影が薄い。橋本さんは「家長と一族」というキーワードを使って、「天皇家」の歴史を解きほぐしてくれるが、これがホントに面白くて、なるほどと唸ってしまう。

唸ってしまうが、要約しろと言われるととても私には無理なので、ぜひとも本書を手にとってくださいと言うしかない。

「父としての天皇」がクローズアップされてくるのは「天皇の父である上皇が実権を握る」院政の時代で、橋本さんによると日本の「男の歴史」は院政時代にやっと始まるらしい。

それまで「欲望」というものを持てなかった「天皇」という「主権者たる男」が、「欲望=私は誰を愛するか」を明確にするのが院政の時代なのだ。

誰を后(中宮)にするか、というようなことは、摂関政治華やかなりし頃には藤原氏が決めていた。内裏の外に勝手に出ていけない天皇は、他の男達のように女の家に忍び込めない。「妻」は家臣たちが勝手に連れてきて、気に入ろうが気に入るまいが、「もっとも権力を持っている藤原氏の娘」を正室(中宮)として遇することが決められていた。

教科書的には「藤原氏に奪われていた実権を取り戻すため、“院政”が始まった」というふうに言われていると思うのだけど、院政の始まりは「最愛の女を中宮にしたい。その女から生まれた皇子を皇位につけたい」という非常に人間的な、あんまり“政治そのもの”とは関係のないきっかけであるらしい。

まぁ、平安時代の「政治」というのはイコール「人事」だから、「誰を愛するか=誰に中宮の位を授け、皇太子の地位を授けるか」は大いに「政治」ではあるのだけれど。

「国家」とか「民衆の暮らし」とかいうのが全然出てこないのが、平安時代の「政治」だからなぁ。

ちなみに持統天皇が完成させた「律令国家」の根幹である「班田収授法」は、摂関政治の時代にはもう有名無実になって、行われなくなっている。

国家の根幹をなす重要な事業を「面倒だ」だけでやらなくなってしまうのは官僚の腐敗以外の何物でもないはずだが、どういうわけだか日本では、こういうことが真剣に問題にされない。国民の年金基金を集める社会保険庁が、「もう金は集まってるからバンバン使っちまえ」と無駄遣いをしたり(中略)、年金制度の崩壊を招いてしまうというのは、班田収授が有名無実になってしまうのと、同じことかもしれない。(P151)

わはは。

平安時代の貴族はみんな「官僚」で、江戸時代の武士も「官僚」なのである。そしてその「官僚になることが出世の道、官僚として出世することが出世」とされる二つの官僚時代は、日本史の中でもっとも安定していた時代だったりする。

霞ヶ関を改革しようたってそう簡単にはいかないのも、しょうがないのかもね。

根が深すぎる。

平安時代と江戸時代の共通点には「外国の影響を受けない」というのもあって、だからこそ「システム」という大前提さえあればあとは腐敗しててもテキトーでも「国内」だけなら平気でなんとかなってしまったのであろう。

きっと、今の日本も「対外関係」ということを勘定に入れなくていいんなら、首相がコロコロ変わっても、年金が破綻しても、「世は事もなし」で動いていくんじゃないだろうか。事実、今のところ動いてるし……(という考えがよくないのかな。もっと“変革”を望むべきか???)。

で、さて。

「“父”としての天皇」がクローズアップされる院政時代、「父である上皇」と「子である天皇」の間に対立は生まれ、摂関家の父子にも対立が起こるようになる。

「父子の対立」というのは、時代が流動的になって、父の拠って立つ状況と息子の拠って立つ状況にズレが起こってしまった結果のものである。(P189)

つまり、「親父のやり方はもう古いんだよ」だ。

院政時代というのは、それまでの「摂関政治のやり方」が通用しなくなってしまう時代だから、当然父と息子の間で「もうそんな時代じゃねぇんだよ」というやり取りが起こる。

現代的だなぁ。

というか、それが「父子対立」の元凶であるなら、この先もう父子が対立しない時代なんて来ないんじゃないの?という気がしてしまうが。

かつて職業は「家」に所属するものだったから、家長である「父親の役目」の一つは、息子に「職業を与える」ことだった。

「職業の世襲」がなくなってしまうと、父親は「息子に職業を与える力」を失ってしまう。(中略)もしかしたら「息子に職業やポストを与える力」は、「父親であることの意味」の九十パーセント以上を占めていたものかもしれない。(P145)

この後に続く文章もなかなか素敵というか、「やっぱりこの先父親が復権することなんてないんじゃ?」と思ってしまう、実に社会学的示唆に富んだ内容である。

時代の移り変わるスピードが速くなって、「従来の知識」が役に立たなくなると、父親はもちろん「年長者」というものが尊重されなくなる。

私は10年近く明治末年生まれの義祖母と同居していたけれど、「もうそんな時代じゃないんだから」ということを彼女は周囲から何度も言われていた。享年98歳だった彼女が「もうそんな時代じゃない」と言われるのはまぁ仕方ないといえば仕方ないのだけれど、彼女が子ども時代を過ごしたン十年前のことを考えると、「もうそんな時代じゃない」と言ってその考えを拒絶するのは可哀相な気がしてくる。(もちろん私も「そんなの古いよ」と何度も言った人間なんだが)

彼女の考えが「古く」なってしまったのは、彼女のせいじゃなく「時代」のせいで、人間そうコロコロ「考え」を変えられるものじゃない。

私と息子の間でも「時代状況」は全然違うし、10歳違えばその「時代状況」はかなり違う世の中になってしまった。

どうしたってみんなの意見が噛み合わなくなる世の中になってしまっているのだよな。

果たしてまた「安定期」が来ることはあるのだろうか。


ところでこの「職業の世襲」という話のところで私はついつい「議員の世襲問題」を連想してしまった。政治家に限らず、官僚も日本史の中ではずーっと「世襲」だったのである。なんとなく今も、「そういうもの」という心性が日本人の中に残っている気がする。

「名門に弱い」というか、「任せたがる」というか。

世襲じゃなくて政治家になりたい人って、そんなにもいないんじゃないのかな。

「家」がなかったら、何を基準にして選んだらいいのか、わからないし。「個人そのもの」を評価するのは、非常に難しいことなんだから。