『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍・ハヤカワ文庫版)をAmazonで購入

やっと読み終わりました。光瀬龍さん版『百億の昼と千億の夜』。

後半はSF用語というか、科学技術的な言葉も多く、書かれている情景を思い浮かべるのがやっぱり大変で、お話的にも「ん?ちょっと待って、このセリフはどういう意味?」と色々考えなければならず。

時間がかかりました。

なんか……何から書けばいいのかな。

この間「阿修羅王とシッタータの出逢い」「弥勒」のことを書いた時は、「ナザレのイエスの話も面白いけど、また次回」みたいな終わり方をしたんだけど。

もはや、「エルサレムより」の章がとても遠い。

後半は、前半の時代から何千年と経った後、という設定になってるから、そこを読み終わった今、前半のアトランティスの話や、シッタータの出家や、イエスの磔の話は、本当に遠い過去のことと感じられる。

イエスは、コミックの方がより貧相で「ぱしり」な感じがしたな。

やっぱり、ビジュアルで「貧相」「ヤな奴」って見えてるから。

原作でも、もちろんイエスは「ぱしり」で、阿修羅王達にとっては敵なんだけど。

イエスを捕らえて磔にするのは、エルサレム駐在のローマ代官。『ローマ人の物語』を読んでいるせいもあって、ローマ側の視点が面白くもあり、非キリスト教徒の私にとっては本当に、「なぜキリスト教はこんなにも世界を席巻したんだろうか?」と思わされる。

十字架に架けられたイエスを助けることで、地球外の高次生命体=“神”は奇跡を演出する。

その奇跡あったればこそ、人はイエスの説いた教えを信じるようになる。

イエスを捕らえ、裁かねばならなくなったローマ代官ピラトゥスは言う。

「神はそんなに簡単にこの世にあらわれるものなのであろうか」

そうして、光瀬さんは次のように書く。

「ローマ代官、エレサレム総督ピラトゥスのこの問いは、実は事のなりゆきの核心を衝いていたのだった。このときに関する限り、ローマ貴族の一員であるかれの、ユダヤ人とその土地によどみ、なにやらくらい執念にささえられた不条理な異教徒的な神など、信ずるにもたりないとするローマ的教養と精神とが、ナザレの一人のみすぼらしい男らの意味するものと、破滅的緊張のもとでまっ向からぶつかりあったときなのだった」 (角川文庫版P205)

56億7千万年の後に人々を救いに来るという「弥勒」。

そして、いつかやってくるという「最後の審判」。神の裁き。

「いつか」とは「いつ」なのか?

それほどの遠い未来にしか現れない「神」とは何なのか?

なぜ「神」は人を「裁き」、その眼鏡にかなったものにしか天の門を開いてくれぬのか?

もしもこの物語が説くように、それが「高次生命体」によって植えつけられた思想でないとしたら、もしも自発的に、人類が編み出した思想であるなら。

なぜ、人はそんなものを必要としたのだろう?


「超越者」を崇めるとはどういうことか。

後半、阿修羅王達は「神」と呼ばれる者達と闘う。「神」を名乗り、我々地球人類を滅ぼそうとする者達と。

彼らはどこから来たのだろう。

彼らもまた、さらに上位の「超越者」によって操られ、生殺与奪を握られている存在ではないのだろうか?


この宇宙が「ビッグバン」により生まれた、という話を聞いた時、私は思った。

ではそれ以前、「世界」はまったき「無」であったのだろうか?

なぜ、完全な「無」の状態に、「ビッグバン」などというものが起こったのだろう?

あるいはまた。

「膨張する宇宙」という話を聞いた時。

膨張できるということは、「外側に空間がある」ということなのか、と不思議に思った。

三次元ではない、もっと違った時空を考えれば、「外側」などなくても膨らんでいくことが可能なのだろうか?

何万光年彼方の星々。

地上に届くその光は、何万年の昔にその星を発したもの。

ちょうど、「弥勒」の章を読んでいた時、外はよく晴れて、満月と星々が美しかった。

息子の体操クラブの付き添いで、夜の体育館で読んでいて、外へ出ると、輝く星。

ああ、あの星は、今はもうあそこにはないのかもしれない。

今、この瞬間、同時に宇宙に存在している星々は、一体いくつあるのだろう。太陽系以外の星がもうすべてなくなっていたとしても、私たちには知りようもない。

光だけが、時を超えて、私たちの目に届く。

ふくらみ続ける宇宙の果てで、今この時に何が起こっていようと――あるいは起こっていまいと――、私たちは今、それを知ることはできない。

まして、「そのさらに外側」など……。


コミック版を読み終えた息子が言った。

「それで、“シ”って何だったの?」

地球に開発を施したという「惑星開発委員会」。委員会に命を下したとされる“シ”と呼ばれる何ものか。

そこへたどり着けぬまま、この本は終わる。

一人残された阿修羅王の前にはただ、あらたな百億の、千億の日月があるばかり――。


「阿修羅王の戦いの続きが見たいな」とも、息子は言った。

物語は終わらないだろう。

戦いもまた、終わらないのだろう。

決して、真の“超越者”にたどり着くことなどあるまい。

なぜこの世界が存在するのか。

そんな問いに、答えなど―――。


それでも。

世界は存在してしまった。

私たちは、存在してしまった。

それを無意味だとは思わない。

答えを知りたいと願うことも、戦い続けることも。


それでも。

出逢えたのだ。

シッタータは阿修羅王に。

阿修羅王は、シッタータに。


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