『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍・ハヤカワ文庫版)をAmazonで購入

4分の3ほど読み進みました、光瀬龍さん版『百億の昼と千億の夜』。

どうしても、萩尾さんのコミック版と比べて、「ここは違う」「ここは同じ」とチェックしながら読んでしまいます。

阿修羅王が少女なのは、原作からしてそうだったんだよね。

まったく覚えてなかった……。

コミックを読んだ時に、阿修羅王とシッタータの出逢いは「ボーイ・ミーツ・ガール」だと思って、それで阿修羅王は「少女」なのかな、って思ったんだけど。

原作でも、やっぱりシッタータと阿修羅王の出逢いはとても印象深い。

「少女」と説明されてはいても、彼女の言動が「少女らしい」わけではまるでなく、「少年」であっても問題はないような気もする。

でも「少女」だという前提が何か、文章で表現されていない部分までも伝えてくるようで……よりいっそう強く阿修羅王の存在が心に残る。物語の中でシッタータも、絶対彼女に強く惹かれていると思う。

「闘う少女」「強い少女」である彼女に。

太子の胸に、あの修羅と呼ぶにはそぐわない、あるいはまことに修羅と呼ぶにふさわしい一人の少女の姿が、焼金をあてたように鮮烈に灼きついていた。 (1980年版角川文庫P168)

シッタータ(のちの仏陀)の出家のシーンも、コミック以上にこう、胸に迫る。

シッタータって、王子様なんだよね。王子様なのに、妻を捨て子を捨て、国も民も捨てて、求道の道へと進んでゆく。

彼が王城を出て行く朝、よその国の兵が攻め入ってきたという知らせが届く。

「それでもあなたは出て行くのか」となじる老親衛隊長。

「あなた一人の迷いを解くのもけっこうだが、あなたを頼りとする貧しい民のことはどうなるのか!?」

すごくわかるんだよなぁ、この葛藤。

私は別に王様でも王女様でもなくて、民衆を背負っているわけじゃないけど、「この世のことわり」だの「生きる意味」だの、浮世離れしたことを考えるのが好きだから――そんなことを考えていられる自分のことを、「めぐまれたご身分」だと思うから。

食べるものの心配も、寝床の心配もしなくていい。

「明日」を保証された身分で、「明日などあるかどうかわからない」と無常の生を思う。

そんなこと考えてる暇があったら、もっとまじめに掃除するとか、料理するとかした方が世のため人のためなんちゃうの?、っていつも「うしろめたさ」を抱えているから。

「悟りを開く」ことと、「苦しむ民衆を救う」ことと、人間にとってどちらが大事か?

精神の飢えと、肉体の飢えを比較することは、本来できないことかもしれない。人はパンのみにて生くるにあらず。されどパンなくして、人が生きてゆけないこともまた事実。

不作が続き、病の流行するシッタータの国。

老親衛隊長は叫ぶ。「この悲惨なありさまが天の意志だというなら、すでに天は人のためにあるのではない」

そう。シッタータは答える。「天の意志は必ずしも人のためにはたらくものではない」と。

だからこそ、彼は知りたいと思うのだろう。ならば天の意志とは何か? ならばなぜ、“人”は存在するのかと。

……仏陀の出家の日に、真にこのような場面が展開されたかどうかは知らないけれど、彼が王子であり、国も民も捨てたことは確かで。

捨てられる側にはきっと、「我々を見捨てて何の“救い”か。何の“悟り”か」という想いがあったろう。


“救い”とは、何であろう?


『百億の昼と千億の夜』の中で、このシッタータの出家と阿修羅王との出逢いの章は「弥勒」と名づけられている。

56億7千万年ののちにこの世に現れて、人々を救うとされている存在。「弥勒」。

56億7千万年。

なんという時間。

まるで、「そんなものは夢物語さ」と言うためだけに設定されたような、永劫にも等しいその、出現までの長き時。

100年さえも生きることのかなわぬ人間に、56億7千万年後に約束された“救い”とは何だろう?

人はそれを“救い”だと思うのだろうか?

なぜ、そのような信仰を人は必要としたのだろう?

あるいはこの物語が説くように、それは“人”ではなく“神”が必要としたものなのか――。


十字架にかけられるイエスを描いた「エルサレムより」という章でも、同じテーマを強く意識させられる。

……続きはまた今度。


【関連記事】

『百億の昼と千億の夜』/萩尾望都

『百億の昼と千億の夜』~回想~

世界はなぜ存在するのか~『百億の昼と千億の夜』~