あれほどの繁栄と平和を誇ったローマ帝国が、いよいよ落ち目になっています。

正直、この『迷走する帝国』は、読むのが辛かった。

なんか鬱々としてきちゃう。

多神教で、絶対の神よりも人間を重んじ、法と信義に生きるローマ人におおいに共感し、初代皇帝アウグストゥス様の“繊細なフィクション”に感動した身としては、まるで自分の住んでる国が滅んでいくような、そんな哀しさがあるのよねぇ。

読みながらつい、「なんでそんなことするんだ、馬鹿ぁ!」と思っちゃうし。

1000年以上前の出来事に私が今ここで何を言ってもどうしようもないのはわかってるんだけど。


前巻の最後に、「魚は頭から腐る」と書かれたローマ帝国。

存亡の危機に見舞われた3世紀の帝国では、73年間に22人もの皇帝がいた。

帝位に就いては殺され、また戦死し、一人一人の在位期間が1年やら2年やら、非常に短い。これではとても「継続した政策」など実施できず、混迷は深まっていくばかり。

『ローマから日本が見える』で塩野さんが、共和制時期のローマ元老院を55年体制の自民党にたとえていらっしゃったんだけど、「迷走する帝国」で描かれる時期の元老院は、ただの既得権益層になって、人材もいなければ危機への対処もできず、それどころか「なんとかがんばって現状を打開しようとする皇帝」の足を引っぱることまでする。

ローマの皇帝になるには、一応元老院の承認が必要なんだけど、もうすっかり「追認」になってて、自分達が「承認」したはずの皇帝を支えていこうなんて気はさらさらない。

人望・実力ともに厚かった皇帝アウレリアヌスが謀殺され、珍しく軍隊から「あんた達で早く次の皇帝を決めてくれ」と言われても、自分達の中から皇帝を出すこともできなければ、他の誰かを推挙することもできない。

アホちゃうか、ほんま。

何のために存在してるんだ、あんた達。

皇帝達は自分からその職を放棄するわけではなく、「不信任」を突きつけられて1年で謀殺、ということが多いのだけど、目まぐるしくトップが代わり、そのトップを支えるはずの元老院もまったく機能していない「大混乱状態」を見ていると、なんだか人ごととは思えないというか……。


ゲルマン民族の襲撃が激しくなり、防衛を強化するために軍隊の強化が行われる。そして軍団の司令官をも輩出していた元老院と軍の関係も断ち切られる。

もともと、ローマでは内政も軍事もこなすオールラウンダーが政治を取り仕切っていたのだけど、だんだんと元老院議員たちは軍事に疎くなり、地方出身の「たたき上げ」の人材が活躍するようになり、皇帝も元老院議員ではなく軍人から出てくるようになる。

それは「ゲルマン民族の襲撃から帝国を守らなければならない」という時代の要請ではあったんだけど、軍人と文民の間に溝ができて、「どっちもわかる」という人材が少なくなっていったことは、ローマが衰退する大きな原因の一つであったんだろうと思う。

「歴史に学ぶ」ってよく言うけど、このへんの「軍事」と「内政」の関係は示唆的だよなぁ。


そして、本当にものすごく教訓的だと思うのが、カラカラ帝による「ローマ市民権の拡大」。

ローマは大帝国だったんだけど、イタリア半島以外の部分は基本的に「属州」で、そこに住んでる人たちは「属州民」というくくりになっていた。

属州に生まれても、軍隊に志願して出世したり、功績があれば「ローマ市民権」を取得することができたけれど、「ローマ帝国の住民全員がローマ市民権を持っている」ではなかった。

それをカラカラ帝は「誰でもローマ市民!」にしちゃったのだ。

ローマ帝国に住んでいる以上みんな平等なんですよ、等しく同じ権利を所有し、ローマ法によって保護されるんですよ、ということになって、「そりゃ良かった」になりそうなところなんだけど。

これが全然良くなかったんだなぁ。

“「取得権」の「既得権」化による影響”ということで、塩野さんが書いておられるんだけどね。

「人間は、タダで得た権利だと大切に思わなくなる。現代の投票時の棄権率の高さも、これを実証する一例になるだろう。なぜなら、実利が実感できないからだ」(P46)

もともと「ローマ市民権」を持っていた人たちは、「誰でもローマ市民」になったことによって「自分達が国を支えているんだ」という気概を喪うし、新たに「市民権」を得た属州民達は、「タダで得た権利」ゆえにそれを大切だと思わない。「これからは自分達が国を支えていく」などと、ちっとも思ってくれない。

「誰でも持っているということは、誰も持っていないと同じことなのだ」(P51)

しかも、属州民と市民の間に「差別」がなくなった代わり、それらを合わせた「一般市民」の中で「階級差」が発生する。奴隷でさえも働きいかんで「市民権」を取得できた「社会の流動性」が、「みんな平等」になったためにかえって喪われ、貧富の差が固定化していく。

……なんか、これ、ほんとに怖くないですか?

人間性の真実というか、一体「真の平等」とは何なんだろうと思ってしまう。


人間性の真実に関してはもう一つ。

地方出身で「軍団たたきあげ」の皇帝でありながら、昔ながらの「ローマン・スピリット」を持った逸材であったアウレリアヌス。

三分した帝国を再び統一し、めざましい功績を上げていた彼は、側近のつまらない裏切りと誤解によりあっけなくその生涯を終える。

在位わずか5年で殺されてしまうのだ。

アウレリアヌスの次の次の皇帝プロブスもしかり。皇帝としての彼の治世に問題があったわけではまるでないのに(むしろ有能であったのに)、「こんな仕事したくねぇ!」と不満を持った兵士達の、反乱とも言えない「暴発」で殺されてしまう。

アウレリアヌスもプロブスも軍団たたき上げで、「いいとこのぼんぼん」では全然なかった。

この前の巻の『終わりの始まり』の感想でも書いたんだけど、「親の名前もさだかでないような地方の貧しい小せがれでも実力次第で皇帝になれる」ということになった結果、皇帝の地位が逆に軽くなってしまって、「あいつがなれるんだったら俺がなってもいいだろう」とか、「俺のところの軍団長の方がふさわしい」とか、ちょっと不満を覚えると「あんな奴、もともとは農家のせがれじゃないか」と思えるようになってしまった。

だから、全体としてはいい皇帝であったにもかかわらず、ものすごくつまらないことで殺されなくちゃいけなくなる。

「実力主義とは、昨日まで自分と同格であった者が、今日からは自分に命令する立場に立つ、ということでもある。この現実を直視し納得して受け入れるには相当な思慮が求められるが、そのような合理的精神をもち合わせている人は常に少ない。いわゆる『貴種』、生れや育ちが自分とはかけ離れている人に対して、下層の人々が説明しようのない敬意を感じるのは、それが非合理だからである」(P158)

結局人間は「みんな平等」になるとやる気をなくし、「上に立つ人間」には「自分とはかけ離れた生れや育ち」を要求するものなんだろうか。

思い当たるふしが、いっぱいあるもんなぁ。


……勉強になりすぎてせつない3世紀の『ローマ人の物語』である。