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『ローマ人の物語』ⅩⅠ~終わりの始まり~/塩野七生
先月出た、「32~34」巻を読むために、31巻をざっと読み返した。
読んだのが1年前なので、ほんとにろくに覚えていなかった。
「29~31」巻までは、単行本の11冊目「終わりの始まり」に当たる。
「終わりの始まり」。
なんか、それはローマ帝国のことですか?という気がしてしまう昨今の状況ではあるよなぁ。
次の「32~34」巻は「迷走する帝国」やし……。
塩野さんの「ローマ帝国の終わり」は、巷では「五賢帝」と呼ばれ、「哲人皇帝」の呼び名も高いマルクス・アウレリウスから始まる。
「五賢帝」最後の一人である彼は可哀相に、塩野さんの「賢帝の世紀」(文庫版24~26巻)に入れてもらえなかったのだ。
この間読んだ『ローマから日本が見える』の中でも、「哲人政治家なんて、私から言わせればまったくのナンセンスです」(P406)って言われちゃってるし。
別にこの個所は、マルクス・アウレリウスを名指ししたわけじゃないんだけど、でもローマの英雄たちの通信簿をつけている個所で「哲人政治家」って言葉が出てきたら、やっぱりそれは彼のことでしょう。
なんでナンセンスかっていうと、人格の善し悪しと、目的を達成することとの間には何の関係もなくって、「たとえ人格に問題があろうと、国民を幸福にするという大目的を達成できたら、それがいいリーダーなのです」(P406)。
はい、今誰を思い浮かべましたか?(笑)。
それはさておき。
マルクス・アウレリウスの後、息子のコモドゥスが帝位を継ぎ、でも彼はあまりいい皇帝ではなく、暗殺されてしまう。
そしてペルティナクスという人が皇帝になるんだけど、この人もたった87日間で殺されてしまう。
で、帝位争奪戦という「内乱」が繰り広げられ、最終的にセヴェルスという武将が勝利を得て、この人は18年間帝位に在り続ける。
セヴェルスは3人のライバルをたたき落として、帝位に就いた。
この時期、もう元老院の権威は失墜してしまっているので、それぞれ軍団を率いた武将達が血で血を洗う争いをしていても、何の手も打てない。それどころか、「俺が皇帝だ」とローマに入城してきた者には「はい、そうですか」と承認を与えてしまう始末。
マルクス・アウレリウスは「内乱」の悲劇を知っていたから、ローマ人にはあまり馴染みのない「世襲」にすることで、それを回避しようとした。
でも残念ながら、「賢帝」の子は必ずしも「賢帝」ではなく、やっぱり内乱になってしまった。
ペルティナクスが殺され、次にユリアヌスという人が担ぎ上げられた時、3人の武将が「あいつが皇帝なんて認めない! あいつが皇帝になれるんだったら俺だって皇帝になれる。いや、俺の方がふさわしい!!」という感じで名乗りを上げる。
自分で名乗りを上げた人もいるし、自分の配下の軍団から推された人もいるのだけど。
なんか、それって結局ローマが「豊か」になっちゃったからなのかな、と思う。
地中海世界全部を覆うような巨大な帝国になっちゃって、「賢帝の世紀」に豊かさと安定を手に入れて、みんなが「そこそこのレヴェル」になっちゃって、「豊かで安定している」に慣れてしまった人々は、「帝国を維持する皇帝の大変さ」すらもがもうよくわからなくなっていて、「あいつがなれるんだったら俺だってなれる」とか、ちょっと気に入らないと「さっさと殺したり」してしまう。
みんなが「そこそこ」になってしまった結果、上に立つ「皇帝の値打ち」ってものが下がってしまったというか。
哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、「死ねば皇帝も奴隷も同じだ」と書いた。
ブリタニア遠征の途中、病で死んだセヴェルスは、いまわのきわに「今になってみると、そのすべてが無駄であったようだ」と洩らした。
塩野さんは、「死ねば誰でも同じだが、死ぬまでは同じではない、という矜持をもってローマを背負った、リーダーたちの時代は終わったのである」(31-P138)と書く。
「矜持」
現代に足りないものも、特に「上に立つ人」に足りないものが、これなんちゃうかなぁ、と思ってしまいます。
政治家に限らず、色々なところで色々な「上の人」が悪いことしてるもんね。
倫理観っていうより、あれはきっと「矜持」が足りないんだな。
自分のやっている仕事に対する誇りというものが。
まぁ、紙切れを転がしただけでお金が儲けられたり、「仕事」というものの質自体が変わってしまって、「誇りを持つ」ということができにくくなっているんだろうけれど。
31巻の最後は、「魚は頭から腐る、と言われるが、ローマ帝国も、「頭」から先に腐って行くのだった」(31-P139)。
……ローマの話ですよね、ローマの……。
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