『災厄の町』『フォックス家の殺人』に続くライツヴィルシリーズ3作目。

ニューイングランドの架空の町ライツヴィルシリーズを舞台にしたお話はどれも心理的にじわじわ追い詰められる「心理サスペンス」なのですが、今作もその例に漏れず、最初からずっと不幸の影が――迫りくる破滅の影が重く垂れ込めていて、読者はいつその影が実体となって目の前に落ちてくるかと息苦しい想いでページを繰ることになります。

10年ほど前にパリで3週間ほど一緒に過ごした青年ハワードが、突然エラリーを訪ねてきます。

たびたび記憶を失うという症状に苦しんでいるハワードは、記憶のない間に自分が何かとんでもないことを――殺人のような恐ろしい犯罪をしでかしているのではないかと、エラリーに監視を頼むのです。

家に来て、自分の行動を観察してほしいと。

渋々その依頼を引き受けたエラリー。ハワードがどこに住んでいるのかも知らなかったのですが(何しろパリ以来一度も会っていなかった)、実はハワードはライツヴィルの人間だったのです。

かくてエラリーは三たびライツヴィルを訪れることに。

『災厄の町』の事件は戦争が始まって間もなく(1940年から1941年にかけて)、続く『フォックス家の殺人』は戦争後間もなく、と49ページでエラリーが回想しているのですが、『フォックス家』はまだ戦争終わってなかったのじゃないのかな。戦争の英雄デイヴィーは終戦を待たずに故郷に帰ってきたような感じだったけど……。1944年の話だと思ってました。

ハワードと知り合った10年前が「1939年のこと」と書かれているので、「現在」は1949年でしょうか。作品の刊行が1948年ですから、「およそ10年」ということで1948年なのかもしれません。

ともあれ前回訪れた時から4~5年の月日が経っているということで、エラリーはけっこう懐かしがっています。「これだからライツヴィルはいい」とか、「故郷に帰ったような気がした」とか。

その後降りかかる災難も知らずに……。

そう、エラリーはこの作品で致命的な傷を負うのです。心の傷、「探偵」としての誇りに対する傷。

続く『九尾の猫』ではその傷を抱えたままどう事件と向き合っていくのかが描かれる――みたいな話を聞いたので、先にこっちを読まなきゃと思ったわけです。

さて、記憶喪失に悩まされるハワードには、貧しい育ちから実業家として成功し、富豪になった偉大な父ディードリッチと、その若き妻サリー、ディードリッチの仕事を手伝う叔父ウルファートという家族がいました。

サリーはもちろんハワードの実の母ではないのですが、ディードリッチもまた、実の父ではありませんでした。まだ赤ん坊の頃にディードリッチの家の戸口に捨てられていたハワードは、ディードリッチの養子でした。捨て子の自分を拾い、何不自由なく育ててくれた「父」に多大な恩義と愛を感じているハワード。

一方で、ハワードには義母にあたるサリーもまた、ディードリッチに「拾われた子ども」でした。貧民街に生まれ、9歳の時に親を亡くした彼女は、ディードリッチの援助で教育を受け、美しい淑女になったのでした。

いわばディードリッチは彼女にとって「あしながおじさん」だったわけですが、サリーと結婚するまで独身だったディードリッチはむしろ「光源氏」で、わずか9歳の少女を見初めて将来の妻にすべく自分好みの女性に育て上げたのです。

血の繋がらない美しい若い「母」と「息子」。当然、と言っては何ですが二人は過ちを犯し、エラリーがライツヴィルに到着するちょうど前日、謎の脅迫者から2万5千ドルを要求されてしまいます。

ディードリッチの家では半年ほど前に盗難事件があり、サリーの宝石箱が盗まれていました。その宝石箱の二重底の中にはハワードからの手紙が入っており、その手紙を手に入れた何者かが、それをネタに脅してきたというわけ。

ハワードとサリーに「助けてほしい」と懇願され、エラリーは2万5千ドルを指定の場所まで運ぶ役を務めるのですが……。

この手の脅迫に屈して、うまく行く試しがないのですよねぇ。金と引き替えに手紙を返す、と言われて実際に手紙が返ってきても、「写し」を取っておくことは可能なわけです。まだコピー機はなかったかもしれませんが、「犯人は複写写真を百組でも千組でも作っておくことができる」とエラリーが言っています。

こんなことにかかずらうのはまっぴら、と思いつつも二人に手を貸してしまうエラリー。

彼はどうやら客観的立場に立って、二人を容赦せず、冷笑的態度を続けるほうが、結果的に見てよさそうに思えてきた。だがエラリイは、感情に関することとなると、救い難いほどのセンチメンタリストだった。そして二人はまだ若いのにこんな辛い目にあっているのだ。 (P230)

うっかり同情してしまったのが運のツキとでも申しましょうか。

だってこんなの、脅迫をやめさせるためには自ら「不貞」を明らかにするしかないじゃないですか。サリーもハワードも、自分達のことよりも「それを知ったら父が(夫が)どんなに傷つくか」を気に病んで「絶対に知らせることはできない」って言ってるんだけど、そう思うならそもそも過ちを犯すなよ、って話で。

たとえ赦されなくても正直に打ち明けて謝るしかない。

ディードリッチの態度はどことなく、「すべてを知っている」ようにも思える。ディードリッチこそが脅迫者で、金よりも、二人に「打ち明けてほしい」と思っているんじゃないかと。

二人が沈黙して金を工面すればするほど、むしろディードリッチは傷つくのではないか……。

事件はこの、姦通とそれによる脅迫事件が主です。途中ハワードの実の両親が判明したり、そのショックによりハワードがまた記憶喪失を起こしたりしますが、事件としては地味に進む。でもそれがかえってこう、じわじわと真綿で首を絞められてるような息苦しさを感じさせるのです。

エラリーは

どこかに変な点がある。姦通でもない。脅迫事件でもない。彼がヴァン・ホーン家で見たり聞いたりした事柄でもない。あれらは確かに“間違った”ことだ。だが、今彼が感じている変な点というのは、違う種類の“間違い”で、それはすべてを包括する“間違い”なのだ。 (P169)

と言ったりしています。

下線部は実際には「傍点」なのですが、今回「地の文」にやたら傍点が振ってあります。明確ではないが「エラリーが引っかかっている」という感じを強調しているのだと思いますが、原著ではイタリックになっていたりするのでしょうか。

タイトルは「十日間の不思議」ですが、第一部は「九日間の不思議」です。いつも章題にも凝るクイーンですが、淡々と「第一日」「第二日」といった風に区切られ、七日目の夜、ついにエラリーはハワード達に愛想をつかしてライツヴィルを去ろうとします。けれども七日目の深夜――というか「第八日」と章が変わっているので、日付も変わっていたのでしょう。ついに殺人が起こります。

そうして「第九日」にエラリーが華麗に事件を解決してしまうのですね。「十日間の不思議」というタイトルと呼応して、事件には「十戒」が絡んでいました。

あれ、でも「第九日」で事件解決しちゃったら「十日間」じゃないじゃん。

というわけで第二部が「十日目の不思議」。第一部は「九日間」、そして第二部は「十日目」です。原著でもちゃんと「間」と「目」の区別がつけられているのでしょうか。ちなみに作品の原題は「TEN DAYS’WONDER」。十日目だと「10th day's wonder」になるのかな。

ともあれ十日目は、一年後です。ディードリッチ邸の事件を見事に解決したエラリーはめちゃくちゃ有名になって、以前にもましてひっぱりだこ、「エラリイの生涯の中で最も輝かしい成功の一年」(P325)を過ごした後。

ジャケットのポケットに入れっぱなしになっていたハワードのメモから、エラリーはあの事件の顛末に疑問を抱き始め、恐るべき真実にたどり着きます。

エラリーの「推理」は、真犯人によって誘導された誤ったものだったのです。エラリーは真犯人の手の上で踊らされ、利用されていたのでした。

確か国名シリーズの『ギリシャ棺の秘密』でも犯人がわざと残しておいた偽の手がかりに引っかかって間違った推理をしたことがありましたが、今回もエラリーは犯人にしてやられたのです。エラリーという「名探偵」がいたがゆえに――やたらに手がかりを結びつけ、普通の人間なら思いつかないような意味をそこに見つけ出してしまう「名探偵」がいたからこそ成立した犯罪。

もしもハワードのメモが残っていなかったら、エラリーは一生そのことに気づかず、真犯人は「完全犯罪」を成し遂げていたでしょう。

真犯人と対峙したエラリーは、犯人から

「世間で賞賛するのも当然な《クイーン式方法》というのには――ある一つのきわめて脆弱な点があると絶えず思っていました」 (P396)

と言われます。「一つどころではありませんよ」と返すエラリー。エラリーの華麗な推理には「法的証拠」が欠けていました。

「残念ながら、論理がいかに輝かしくとも単なる論理だけでは法を承服させることはできません」 (P396)

証拠集めは警察の仕事であり、本職は作家にすぎない名探偵は論理さえ組み立てればいい。「推理」はあくまで推理であり、被疑者を逮捕し刑罰を与えるのは――それに必要な物的証拠をかき集めるのは――名探偵の仕事ではないのだ。

いやぁ、痛いとこついてきますね。クイーン自身が、「名探偵」というものの危うさに一度しっかり向き合いたいと考えていたのでしょうか。

「あなたは、ぼく自身がどちらかといえば気取り屋的な心理のタイプの男だということを知っていたのです。(中略)とにかくぼくが自分を心理の驚異の研究家だと自惚れていることをあなたは知っていました」 (P407)

真犯人はそんなエラリーの性格を見事に利用して、エラリーの好みそうな餌をばらまき、「間違った推理」をさせたのです。

その結果エラリーは知らないうちに殺人の「共犯者」になっていたのでした。

「あなたはこのぼくを破滅させました」 (P409)

「ぼくは終わりです。ぼくは今後、決して二度と事件には関係しないつもりです」 (P410)

うわぁぁぁぁぁ。

これを読んだ当時の読者はさぞびっくりしたでしょうねぇ。「エラリー・クイーンは引退してしまうのか?」「これが最後の作品になるのか?」と。

現代の私達はその後もエラリーが事件に関わり続けたことを知っていますけど、その後もエラリーの作品が書かれるのかどうか、当時の読者にはわからないんですから。(クイーンが「いやいや、書きます」とインタビューにでも答えていたら別ですけど)

もともとエラリーは「渋々」ハワードの依頼を受けたわけだし、その後もハワードとサリーに無理に頼まれて脅迫事件に関係して、ライツヴィルに留まり続けたわけで、そうやって「巻き込まれた」あげく共犯者に仕立て上げられるってホント可哀想で、最後はどーんと気分が沈んでしまいました。

いや、まぁ、嫌々巻き込まれただけじゃなく「嬉々として推理を披露してしまった」んですけども。

推理せずにいられないんだもん、しょうがないよねぇ。

真相がわかってみれば、「なぜあれを確認しなかったのか」ということはあるんだけれども。詰めが甘かったと言わざるを得ないんだけども。



それにしてもライツヴィル、事件が起こりすぎじゃないでしょうか。「普通の家庭」というのは意外と存在しないのかもしれませんが、それにしたって「いわくつき」の家族が多すぎる。

結婚直後に行方をくらまして新婚の二人のための家を「災厄の家」にしてしまったライト家の婿ジム(『災厄の町』)。妻殺しの罪で服役していたデイヴィーの父。実は夫の兄と恋に落ちていデイヴィーの母(『フォックス家の殺人』)。

そして今回の、血の繋がらない母と息子の姦通。そこから始まった脅迫と殺人……。

家族だから、近しいからこそ、愛憎が渦巻く。

現実世界でも、通りすがりの見知らぬ誰かに殺されるより家族に殺される可能性の方がずっとずっと高い。

げに恐ろしきは家族なり……。

一方でエラリーは父クイーン警視に愛され、甘やかされていると言ってもいいんですよねぇ。一人っ子だから兄弟間の確執とかもないし、母親いないからお小言を言われることもない。

父子関係はとてもこまやかで愛情に溢れているけど、それ以外の家族や親戚はほとんど出てこなくてそっち方面の「めんどくささ」からは免れているエラリー。

探偵までが「家族の愛憎」に足を取られていたら物語がめんどくさくてたまりませんけどね。



ところで解説で鮎川哲也さんが「○○の箇所の記述はアンフェアだ」と言ってクイーンを非難しているのですが。

それを言うならハワードが「記憶喪失症」っていうのがまず反則な気も。

被害者になるにしろ加害者になるにしろ、何日間も完全に記憶が飛んで、気がついたらまったく違う場所にいるなんていうのは……。そんな人をメインの人物として出されたら、アリバイとか自白とかの信憑性が……。なんかずるい気がするなぁ。


さて、「もう二度と事件には関わらない」なんて宣言しちゃったエラリー、どんなふうに復活してくれるのでしょうか。

早速『九尾の猫』に取りかかります。


※2021年、ハヤカワより新訳版が刊行されました。


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