(前段「重盛の死~そしてすべては終わった」はこちら

13巻後半は重盛の死をきっかけに攻勢に出る後白河院と、それを「裏切り」と感じて傷ついて「きーっ!」となり無茶苦茶やってしまう清盛のお話です。

院は、盛子が消え、重盛が世を去ったこの時を「よし」と思し召されて、再び平氏一門の威勢を削がんと思し召されたのである。 (P167)

後白河院はまず、盛子の所有となっていた摂関家の財産を押収しようとします。盛子は9歳で摂関家の当主基実の妻となり、11歳で後家さんになったのですが、基実の嫡子である基通を猶子として、その後見をするという名目で摂関家の財産を自分のものとしていたのですね。もちろん真に「自分のもの」としていたのは「盛子の後見」である清盛ですけども。

11歳の盛子に対して猶子の基通は7歳とかそんな感じなので、「盛子を通じて清盛が摂関家の面倒を見る」はどう見ても「平家の横暴」でしかなく、基実の弟である基房は当然「なんで兄ちゃん死んだのに摂関家の当主が俺にならないんだよ!」と思っていたわけです。

で、盛子の死後すぐに後白河院は勝手に摂関家の財産を自分のところに移し、基房を呼んで「基通に摂関家氏の長者を継がせたくないだろ?だからとりあえず私が預かっておく」なんて言う。

摂関家の氏の長者や財産に天皇や上皇が口を出すいわれはない!とかつての忠実あたりなら吠えたのでしょうけど、たいして頭の良くない基房はまんまと院に丸め込まれてしまう。

「基通なんかより自分の息子に摂関家を継がせたいだろ?平氏なんかに取られていたくないだろ?」と言われたらうんと言わざるを得ませんものねぇ。

もちろん後白河院は摂関家が威勢を取り戻すことだって望んではいなくて、ただ平氏を逐うために利用するだけ。かつて摂関家に抗するために平氏を用いたと同じことを、逆にするだけ。

後白河院、怖ろしい子――!

さらに院は、重盛の知行国だった越前をも取り上げます。

基房の子の師家がわずか8歳で権中納言に任じられ、越前にあった重盛の知行権が奪われて藤原某に与えられる。その除目に、異議を差し挟む者はいませんでした。そもそもその除目の場、朝議の場に、平氏の者がいません。いるのは時子の弟時忠と、清盛の異母弟にして清盛とは距離を置く頼盛、そしてもう一人の異母弟教盛だけ。

官を辞したままの宗盛はもちろん、清盛の子ども達は誰もその場にいないのです。

小松の内府重盛を欠いた平氏の一門は、いつの間にか、朝廷での勢威を失っていたのである。 (P177)

重盛が死んでも宗盛以下他の子ども達がしっかりしていれば、そんな簡単に「幹は折れた」にならなかったでしょうに。当の重盛以外には誰も、「清盛引退後の平家」を考えていなかったなんてねぇ。

清盛がやたらに口を出して「実質棟梁に返り咲いて」いたがゆえに、宗盛以下の人間はみんな清盛に甘え、また、清盛のやることに口を出せない。一門の中で清盛ばかり力が強くて、でももう清盛は朝廷に官を得ることはできないのです。「前太政大臣」になってしまった清盛は、後白河院の思惑通り、「公式な政治の場」からは追い払われてしまっている。

いやー、もう、ホントにねぇ。

「さっさと出世させてさっさと追っ払う」という後白河院の奸計が見事だったのはもちろんだけど、清盛ももう少し「後継者」について考えれば良かったのに…。創業者であるワンマン社長がいなくなったらとたんに倒産、みたいな……。

盛子の所有していた摂関家の財産が召し上げられたこと、重盛の知行権が奪われたことを知って、福原の清盛は深く傷つきます。怒るより先に、それをする院の「裏切り」に傷つく。

清盛もようやく「自分(を含む平家)が院に疎まれている」と気づくのだけど、「なぜ」疎まれるのかは理解できない。納得できない。父忠盛の時代から「院の御所」に仕え、朝廷よりも上皇に――院政に仕えてきた。その忠勤を愛でられてこその「栄華」であったはずなのに、なぜ今になって院は掌を返すのか。

院はその初めから、清盛とその一門を、一度として「愛おしい」とは思し召されていなかったのである。 (P195)

理解したくないよね、そんなこと。

後白河院はただ、自分より優位に立つものが嫌いなだけで、特に平家が嫌い、清盛が嫌い、というのではないんだけど。

仕えられることは当たり前、「忠勤」などに報いる要もない、そんなものを「恩」とも思わない。

ただ、それだけなんだけど。

哀れな清盛。62歳になって、真に親孝行な子ども達(基盛、盛子、重盛)には先立たれ、邦綱にも見限られ、院には「裏切られ」。

清盛はひとりぼっち。

怒るよりも哀しかった清盛はしばらく福原で波の音ばかり聞いているのですが、師家が権中納言になった除目から2週間ほど経った治承三年十一月、都を大地震が襲います。

地震の7日後、清盛は兵を集めて上洛。「地震は天下の乱れを表す凶兆」という陰陽師の言葉を、「乱すのは院その人!」と勝手に解釈して、「乱れのもとを正さねばならん!」と都に乗り込むのです。

兵を従え上洛する清盛をこそ世人は「天下の乱れの元凶」と見なすというのに。そしてもはやそれを諫める重盛はいない……。

で、都に入った清盛が何をするかというと。

関白基房と、その子師家を逐います。高倉帝の外戚の叔父である時忠に勅許を取り付けさせて。

清盛には何の公的な立場もないんだけど、高倉帝は義妹滋子の子であり、叔父にあたる時忠は清盛とは無関係に野心に富んだ男。お主上に向かって時の関白を逐えと進言する立場を嬉々として引き受ける。

そしてあっさりそれ(関白の配流)は朝議を通ってしまう。何しろそれは「帝の思し召し」であり、前の除目で清盛が激怒するであろうことはみんなわかっていたこと。実際清盛は兵を集めて都にあるのです。

あまりにもヤバい状況に、そもそもみんな参内しないのですよねー。異議を唱えるも何も、「審議」の場にはほんの数人の出席しかない。

今で言う審議拒否、委員会欠席みたいな感じでしょうか。職務放棄、引きこもって嵐の過ぎるのを待つ。平氏の横暴に口を差し挟まない代わり、「率先して平氏の横暴を諾った」という誹りを免れるために。

……日本って、ホントまだ平安時代のままなのかもしれない……。

清盛は関白父子以外にも39人もの人間に「罪」を着せ、「院の近臣」を一掃しようとします。院の寵臣業房とて容赦なく。寵臣なればこそ、容赦なく。

清盛は、業房を「赦せぬ」と思う心の正体を知らなかった。いかにしようとしてもなりがたいその心の正体は、「ご寵にはずれた者の嫉み」でしかなかった。 (P237)

ホントに誰か止めてやれよー。でなきゃさっさと殺してやって。

やっぱり清盛は長生きしすぎたのよね……。

そして清盛は後白河院を鳥羽の北殿へ遷し、幽閉。鹿ヶ谷の謀議が顕れた時、命を賭して父の暴挙を止めた重盛はもういない。もう誰も、清盛を救えない。

怒りにまかせて関白父子を逐い、院の近臣を一掃し、院までも幽閉するという無茶苦茶をして「我が事成れり」と福原へ帰っていく清盛。都に残る宗盛以下子ども達には本当にいい迷惑というか、「え、この後俺たちどうしたらいいんですか!?もうめっちゃ暴虐の一族ってレッテル貼られちゃってますけど!!!」だよね。

が、宗盛は官に復することもなく、相変わらずの役立たず。

哀れとは、この男(宗盛のこと)に率いられていく一門である。 (P263)

どうも宗盛は、「暴虐の一門として定まってしまった平氏の棟梁として都で生きていかねばならない」という自分の立場がまったく全然ちっともわかっていなかったようで、まぁ、幸せといえば幸せな奴です……。

明けて治承四年、数え3歳の(実質1歳半にも満たない)安徳帝が即位します。もちろん高倉帝にそれを指嗾したのは時忠。「朕が東宮に譲位すれば清盛も態度を和らげ父院の幽閉を解くか」と思う高倉帝のお心につけ込んで。

『双調平家』では、清盛がそれ(安徳帝即位)を策したわけではない、清盛は「高倉帝が自ら進んで御譲位のことを口にされた」と信じた、というふうに描かれているんですよね。そして大喜びで安徳帝のお食い初め(何しろまだ1歳過ぎ)の鯛を言いつけたと。

哀れとしか言いようがない、清盛。

晴れて帝の「祖父」となった清盛がやることは、やっぱりどこか歪んでいて。

その朝廷に、清盛の意を汲んで存在するしかるべき臣は、義弟の公家平氏時忠ばかりだった。清盛は、官を辞したままの宗盛に代わって、弟の知盛を参議に上せようとも考えなかった。お主上を戴く朝廷と、御位を下り給われた院の御所と、どちらを重んずるべきかと考えた時、院の御所に仕えることこそを第一義としてきたこの一門は、迷わずに答を出した――「従い貴び奉るものは、第一に院の御所である」と。それが、到り来たった「平氏の御世」の実相である。 (P279)

自身の「孫」が帝となって、それでも「朝廷」を重んじない。宗盛が怠惰なのは事実としても、清盛も彼を官に復そうと考えない。その必要を思わない。

何かが歪んでいる。すべてが歪んでいる。

そして、平氏の横暴を正そうとも、幽閉の後白河院を救出しようともしない「事なかれ」の貴族達に代わって、以仁王が動く。

以仁王は高倉帝の異母兄。親王に叙せられることもなく、ただ「王」として三十路を迎えた後白河院の第二皇子。その以仁王が、77歳になっていた源頼政を召し、平家打倒を仰せ出だす。

頼政は、義朝敗れてのち、都の清和源氏の棟梁となっていた男です。すでに出家して、「源三位入道」と呼ばれていました。大河ドラマでは宇梶剛士さんが演じておられますね。

「平氏を討て」と以仁王に言われた頼政は、「そんな無茶な」と思いつつ、「まずは東国の源氏に呼びかけまして」と奏上する。

さぁ、いよいよ頼朝の出番です。

頼政はまず、熊野にいた義盛に遣いを送りました。義盛は為義の遺児で、義朝の異母弟。頼朝には叔父にあたる男で、義朝敗残の際に東国へ向かわず熊野の姉のところへ身を寄せていたのです。

義盛は行家と名を改め、以仁王の令旨を持って伊豆の頼朝のもとへ。

流されて20年、14歳の少年だった頼朝は34歳になっていました。大河ドラマで描かれているとおり、政子といい仲になっている頃です。

流人の頼朝は、「都の風(ふう)に悪く馴染んだ、色好みの女盗人」なのである。 (P327-P328)

わはははは。

で、行家が頼朝のもとへ向かう一方、行家の郎等は熊野の新宮へ戻り、「平氏討伐の準備を」と行家の姉(つまり為義の娘)に告げます。新宮で戦の準備がされているという話はすぐに那智本宮に知れ、平家と繋がりのある本宮は新宮を制そうとします。

本宮と新宮との間で合戦が起こり、本宮側が敗れて事の次第を六波羅へ報告。以仁王の企てはあっという間に平家にバレてしまいます。

知らせを受けた福原の清盛は当然激怒、「即刻以仁王を捕らえ、土佐へ流せ!」と命じるのですが、都の宗盛は自分の責任で後白河院の皇子を逐うことが怖く、朝廷にその責を委ねようとします。

朝議を開いて「以仁王追捕」の決議を、ということなのですが、そんなことをすれば「事が露見したということが頼政に知れる」わけで。

頼政は一足早く以仁王を三井寺へと逃がすのでした。

ちゃんちゃん。

ほんま宗盛役立たず!

後白河院の気ままに翻弄され、老醜をさらす清盛は哀れだけど、自分が子育て間違った、とも言えるよね。

この先はただ、坂を下り落ちるだけ――。

(14巻の感想記事はこちら