(12巻の感想記事はこちら

前回、12巻の「鹿ヶ谷の謀議」で西光は斬首、成親は流罪の上、暗殺(『双調平家』ではそうなってる)。そして成親の息子成経と、鹿ヶ谷山荘の持ち主だった俊寛、院の近習平康頼の3人は鬼界ヶ島へ。

鬼界ヶ島は現在の鹿児島県、屋久島の北に浮かぶ硫黄島を指すらしいのですが、都の貴族がそんなとんでもないところに送られてどう過ごしていたか、また、成経と康頼は大赦を受けるのに俊寛だけが忘れられ取り残される……というくだりもなかなか興味深いこの13巻。

しかぁし!

やはり重盛ですよ。

12巻に引き続き主役は重盛!

ついに重盛が死んじゃう……。ううう。涙なしには読めないわ。

えーっと、「鹿ヶ谷」の前後に都が大火に襲われ、内裏も焼かれて帝が院の御所に遷る、というような話がありました。

その大火は「讃岐の院の祟り」と噂されます。そしてやっとかの院に「崇徳院」の号が送られるのです。実はこの時まで彼には「名前」がなかったのですね。天皇って、基本的に御位にある間は「今上天皇」としか呼ばれなくて、亡くなってから「○○天皇」という呼び名が奉られるみたいなんですけど、保元の乱に敗れ、讃岐に流されたまま無念の死を遂げた「崇徳帝」には「名前」が与えられていなかったのです。

安元三年の七月二十九日、保元の乱に際して出された宣命の類は、すべてが焼かれた。院号を奉られることもなく讃岐国に崩じられたままの院に対しては、「崇徳院」の諡号が奉られた。(中略)「保元の乱」という悪夢は、公的に抹消されたのである。 (P25)

保元の乱が1156年で、崇徳院が亡くなったのが1164年。安元三年は1177年なので、保元の乱から21年、没後13年経ってやっとかの院は「崇徳院」になったのですねぇ。嗚呼……。

一方、崇徳院にとっては甥にあたる御世の帝、高倉帝が思いをかけた信西の孫、小督はひっそりと女児を生み、二年後に出家します。生まれた内親王は中宮徳子の猶子となりました。

清盛の娘である徳子の方にはなかなか御寵が下らず、やきもきする清盛。

と、そんなところへ夜空に紅い星が二度も出現。都の陰陽師達はそれを「凶兆」と解き、重盛も心を曇らせるのですが、清盛はそれを「吉兆」とみなします。なぜなら「紅は我が一門の旗印!」だから。

「なぜ紅が凶兆なのだ!きっとこれは中宮のご懐妊のしるしに違いない!!!」と張り切って福原から都へ上洛してきます。

清盛って…。

世間では、「紅は平氏の旗印。なればこその凶兆」でもあったのですけどねぇ。空気読めてねぇし。

鹿ヶ谷の一件で後白河院をも罪に問おうとした清盛の専横は、人々の心に恐怖と嫌悪を生み出していました。すんでのところで重盛がその暴挙を食い止めたとはいえ、「平家の横暴」という誹りは結局免れていなかったのです。重盛の死が平氏滅亡の大きなターニングポイントとなるのですが、やはり「鹿ヶ谷」も衰亡への一歩だったのですねぇ。

西光も成親も、ある意味「目的」を果たしたのかもしれません。

しかし清盛が「中宮ご懐妊のしるし!」と思ったのは間違いではなくて。

中宮徳子は後の安徳天皇をその身に宿しました。

嬉しくてたまらない清盛は大事の中宮とお主上を邦綱の邸に遷そうとします。大火の後、お主上は後白河院の御所にいたわけで、そんなの清盛にとってはやはり微妙なわけです。新しく生まれる皇子(とはまだ限らないんだけど)を自分の力の届く場所で生ませたいと思うのはまぁ当然。

でも。

「里内裏としておまえの邸を貸してくれ」と言われる邦綱は、その清盛の「頼み方」に違和感を覚えるのですね。もともと藤原摂関家の家司だった邦綱が清盛に仕えて、もう何年も経っている。気心の知れた二人であるはずなのに、「邸を貸せ」と言う清盛の話しぶりは妙にもってまわっている。

「清盛は変わった」と邦綱は思う。

邦綱は、それをする清盛を恨まない。ただ、清盛のために「哀れ」と思う。栄華の頂に立ってすべてを手に入れ、しかしその後に清盛は、「虚勢」という惨めな鎧を身にまとわなければならなくなっていたのである。 (P47)

後白河院との間に生じた亀裂。そして嫡男重盛との不仲。

忠実と忠通の父子対立を間近に見た邦綱である。忠通に家督を譲った忠実の我欲が、摂関家を傾けた根本原因であることを知っていた邦綱は、出家の入道清盛が重盛の前に出ることを、好ましからぬことと思っていた。 (P46)

だったらさっさと重盛の側についてくれれば良かったのになー、邦綱。もちろん重盛のためにも働いてはくれてたんだけど。

忠盛パパには家貞、清盛には盛国や邦綱という“腹心”“忠臣”がいたんですよね。でも重盛にはいなかった。少なくとも、『双調平家』を読む限り、そういう存在は見当たらない。重盛のために心を砕き、身を尽くして、時には命を賭して重盛を諫めてくれる“一の郎等”。そんな存在を欠いて、重盛は自らの身と心をボロボロにしていく……。

嗚呼、可哀想な重盛!!!

教盛は、「中宮ご懐妊」の慶事に不安を見、重盛は、無を見ていた。なぜなのかは分からない。重盛には、「その先」が見えなかった。 (P61)

教盛というのは清盛の異母弟で、成親の息子成経を婿にとっていた人です。

治承二年(1178年)十一月十二日、中宮徳子は男子(後の安徳天皇)を産みます。皇子誕生を祝って大赦が行われ、鬼界ヶ島に流されていた成経と康頼が帰ってきます。

自分の娘が中宮となり、帝の子を産む。かつては摂関家しかなしえなかったことです。次代の帝ともなるべき皇子の「祖父」となった清盛の喜びようはさぞかし……ですが、その「慶事」の陰で重盛は病んでいました。

内大臣であった重盛は病のため、朝廷への出仕を取りやめます。これまでにも重盛の「病」はたびあびあったことなので、一門の者は「またか」ぐらいにしか思わなかったらしく(ひどい!)、怠惰な宗盛などは「嫡宗たる兄ちゃんが朝政をサボるんなら俺も!」とめんどくさい役目を全部放棄。東宮大夫も権大納言も右大将も辞してしまいます。

ちょっ、いいのかよ、それで。

と思いますが清盛も別に叱りません。あーあ。あんた子育て絶対間違ったよ。あんたが間違ったのか時子が間違ったのか知らんけど、重盛&基盛以外の男子、全然あきませんやん。

清盛が許されたのは、俗世の権勢を一手に掌握することではなく、権勢の道を登りつめ、消え去ることばかりだった。その通りに、清盛は俗世を離れた。権大納言となった重盛が留まったのは、過ぎ去った栄華の航跡ばかりを残す、俗世という人の海だった。 (P135)

その「人の海」を精一杯泳ぎ抜こうとした重盛はしかし力尽き、治承三年(1179年)三月には内大臣も辞してしまいます。五月にはかなり衰弱して、もはやこれまでと悟ったのか出家。

怠惰な弟の宗盛は、「官に復して重態の兄に代わり、一門の重責を担おう」などとは思わなかった。 (P138)

宗盛ェ……。

まったく「上の子」ってホントーに可哀想なんだから!「下の子」はホントーにずるいんだから!ぷんすか!!!

「下の子」で「正妻の子」である宗盛がそう育ってしまったのはしょうがないとしても、誰か叱ってやる奴はいなかったのか。嫡男を欠き、それに次ぐ三男さえもが朝政に携わっていないことを危惧する奴が……!

引退したはずの清盛がしょっちゅう福原から都に戻ってやいのやいの騒ぐので、「平氏の棟梁は清盛」時代が再来してしまっていた(だからこそ宗盛を叱る奴もいない)。だけど太政大臣にまで上り詰めて引退してしまった清盛にはもう何の「官」もなくて、表立って朝政に関わることはできないんですよ。

つまり朝廷での平家の地位は“ないも同然”なんだけど。

大丈夫か。

もちろん大丈夫なわけはありません。

六月、摂関家の北の方となっていた清盛の三女盛子が24歳の若さで死去します。

十一歳で「摂関家の後室」となった盛子には、愛する夫も、愛する子もなかった。ただ義務として、「母」の役割を勤めさせられた――「在る」という以外になにもする必要のない「母」の役を。 (P141-142)

重盛も可哀想な子ですが、この盛子の生涯もまた、なんとも哀れなのですよねぇ。9歳で13も年上の男の“妻”となり、わずか2年でその“夫”を亡くして、あとは平家が摂関家を取り込むための人柱。11歳で、「摂関家の北の方としてただ存在していればいい」という境遇になってしまう。

11歳って、まだ小学生だよ…。

小学生で「後家さん」になって、「養母」になって、恋も何も知ることなく、ひっそりとただ虚しい日々を送る。夫が亡くなったと同じ24歳になった盛子は「同じ年で死のう、けれど夫より少し若いままで死のう」とひそかに食を断ち、静かに此の世を去っていく。

嗚呼、盛子――。

そしてそのひと月後、七月の末、ついに重盛が死んでしまいます。まだ42歳。

嗚呼、重盛。うっうっ。

重盛が重態に陥った七月、清盛の腹心であった邦綱は権大納言を辞しています。その時、邦綱58歳、清盛は62歳。

邦綱はただ一人、重盛の死が意味することを知っていました。

「花は咲き誇ってある。しかし、幹は折れた」――そう思って邦綱は、重盛のために就いた権大納言の地位を辞した。 (P147)

重盛の死。それは、平家という樹の幹が折れること。

この、148ページあたりからの邦綱の「来し方の振り返り」、すごくいいんですよね。摂関家に仕えていた頃から、なぜ清盛のもとへ来たのか、清盛を支え、間近でその栄華を見、また後白河院や重盛との確執を見てきた邦綱の思い。

橋本さんの筆の素晴らしさにうっとりします。

清盛は、栄華を達成した。達成することは許された――清盛一代に限って。 (P154)

これまでの清盛と自身の歩みを振り返りながら、「清盛は早く身を退けすぎたのだ」と思う邦綱。そして、その「早い引退」がなぜなされたのかを考えた時、邦綱は怖ろしい真相にたどり着く。

栄光と歓喜の中で、清盛は世を捨てた――それが当然のありようと、誰もが思っていた。であるならば、清盛に全き栄達を与えれば、清盛を朝廷から逐うことも出来る――そのように考えられる余地もあったということである。 (P156)

誰がそれを仕組んだのか。そんなことができるのは後白河院だけ、院であれば……と思い至って、邦綱は愕然とするのです。

「小松殿の命運は、やがて消え行かれる」――このことを真実と悟った邦綱は、これまでの一切が「無」に成り変わることを、眩暈のように感じ取っていた。(中略)すべては、終わったのだ。 (P159)

最初から、栄華は清盛一代にしか許されていなかった。「平家一門の栄華」などはなかった。であればこその、重盛の苦悩です。「成り上がりの一族」として、複雑怪奇な王朝貴族の海を渡っていかなければならなかった重盛。

「栄華を極めた」と思う清盛に、自分の子がそのような苦難を抱えていることはきっと想像もつかなかった。

自分だけの「栄華」ではなく、「平家」そのものが栄華の一族になったと思っていた清盛。

重盛の死が、隠されていた真実を明らかにする。

滋子が死に、盛子が死に、重盛が死んで、後白河院はもう平家を寵さない。

最初から、平家を寵してなどいない――。


続きます