本
『失われた時を求めて』第1巻/プルースト
タイトルだけは知っていた『失われた時を求めて』。
タイトルだけは、ずっと「かっこいいなー」と思っていた。
かつてアニメ『モスピーダ』の主題歌は『失われた伝説(ゆめ)を求めて』だったし、橋本治さんは『失われた近代を求めて』って本を出しておられるし、「失われた○○を求めて」という言い回しはすっかり定番になっている気がする。
で、そのタイトルと「マルセル・プルースト」という著者の名前は知っていたものの、中身に関してはまったく知らなくて。
古典新訳文庫に入ったのを機に挑戦。
……タイトルのかっこよさからは想像もできない第1巻でした……。
だって、少年時代の回想だもん。
しかもそれが、眠れなくてベッドで寝返り打ちながらの「回想」で、ちゃんと1巻の最後ではまたその「ベッドにいる大人になった主人公」に戻って、「ええっ、一晩で400頁も回想したのかよ!」。
プルーストが原稿を持ち込んだ時、出版社が「紳士たる者が、眠りにつく前にベッドで輾転反側するさまを描くのに30頁を費やすということが理解できません」と言って出版を断ったらしいのだけど、それめっちゃわかる。
すごくうざい(笑)。
なんというか、文章もだらだらだし。
小学校なんかで「主語・述語を明確に、わかりやすく、やたらに一文・一段落を長くしない」とかって習ったのはなんだったんだ、って感じ。これが「古典」「名作」になるんだったら日本のいわゆる「作文指導」は崩壊するだろう、ってぐらい文章がすごい。
途中で入る「たとえ」が長くて、何が主語だったのか、どれが何を修飾しているのか、結局何が言いたいのか、わからなくなること多々。
でも。
これが不思議なところなんだけど、「だからもう全然ダメ、読めない!」ってわけでもないんだな。
まぁ何が言いたいのかよくわかんなくてもいいや、ってテキトーに読み飛ばしてるせいもあるんだけど。
ちゃんと文章は全部追ってるよ。1頁飛ばしたりとかはしてない。
つながりや意味がよくわかんなくてもあまり深く考えず、読み返したりもせず、次へ進むということ。
別に研究者じゃないんだから、最初から最後までの文章いちいち全部「理解する」必要はないもの。
それにこれは勝手な想像だけど、きっと原文も「韻」とか踏んでて、「意味はともかく読んで気持ちいいでしょ」的なとこがあるのではないかと。
フランス語だし(←偏見)。
特にこれといった事件が起こるわけでもなく、つらつらと少年時代の様々なシーンを回想する。
「会話」は少なく、ほとんどが主人公の心象風景。
人間観察は「お、するどいな」って思う部分あるんだけど、山査子(さんざし)の香りがどーのこーの、尖塔の見え方がどーのこーのといった情景描写がかなり大量で、たぶんこの本が好き、プルースト最高!って思う人はその描写の繊細さ、感じ方の豊かさ等に惹かれるんだろうけど、私は苦手……。
そんなのどーでもいいからなんか事件起こらないわけ-?せめて会話してー。
って思っちゃう。
あと、回想される子ども時代の主人公が何歳なのかがよくわからなくて。
「お母さんがおやすみのキスをしに来てくれるかどうかが大問題」ってことは、けっこう幼そうでしょ。
でも「なんとか公爵夫人が恋人だったら」と夢想したり、「おマセさんにしてもほどがあるだろう」という部分もあり。
必ずしも時系列どおりに回想してるわけでもなく、400頁の間には何年分かが詰まってるみたいなので、年齢に幅があるんだろうとは思うんだけど。
読んでて面白いのか面白くないのかよくわからない。
でもたとえば『純粋理性批判』(カント)よりはずーっと読みやすいし、『白痴』(ドストエフスキー)よりすらすらと読み進める。
一文長いし、一段落も長いし、「今日はここまで」って切ろうと思ってもキリが悪すぎて余分に3頁くらい読んじゃうってせいもあるけど。
「そのうち何か起こるんじゃないか」という期待感もある。
……Amazonレビュー読むと、この先もやっぱりすごい事件は起きなさそうだけど……。この調子でだらだらと14巻も行くのか。(この調子だから14巻も行っちゃうんだろうなぁ…)
訳者の方が「前口上」で、「どんな作品かよけいな知識なしに、出版された当時の人々のようにまっさらな気持ちで読んでほしい」みたいなことを書いてらしたので、「有名なこと以外予備知識が何もない」私の読み方はきっと正しいんだろうと思う(笑)。
注釈もほとんど読んでないし。
出版当時の読者は「注釈」なんかついてない本を読んでたはずだものね。
「注釈」、巻末ではなく頁内にあるから参照しやすいんだけど、本文を中断してそっちを読まなきゃいけないのって、やっぱりリズムが壊れる。
特に「この版ではこうだが、別の版ではこうなってる」とか「原語にはこういう意味もあってこういうふうにも取れるが」とかいうのはめんどくさい。研究者じゃないんで、そんなのどーでもいいです(笑)。
時代背景的な事物の「説明」も、まぁ読まなくてもだいたいわかる。
本文中で言及される絵画の図版なんかも入ってるけど、そーゆーのって逆に「一体どんな絵なんだろう?」って想像するのが楽しい部分もあるし。
どこが好きなのか、なんで好きなのかわからなくても「好き」はありうる。
むしろ「恋愛」だとそっちの方が本当だろうと思う。
なのでなんかよくわかんないけど、1冊読めちゃった、っていう本もあるんでしょう。
2巻目出たらもちろん買うつもり。
14巻までつきあえるかどうかはまだ自信ないけど(笑)。
この古典新訳文庫も一人の訳者さんの「個人全訳」なんだけど、ほぼ同時期に岩波文庫からも「個人全訳」が刊行開始。
研究者じゃないので読み比べする元気はありませんが、Amazonレビューを見ると両方読んでいる方がいらっしゃる。
どちらも素晴らしい翻訳だそうです。どちらか一方だけではもったいないそうです。
どちらも全14巻、両方読んだら28巻。
図書館で岩波文庫借りてきてちょっと見比べてみる、ぐらいは面白そうだけどなぁ。
図書館は両方入れるんだろうか。(近所の図書館には古典新訳文庫しか入ってない。まだこれから入ったりするかな。スペースと予算的に両方は大変だと思うが)
ちなみに岩波の方がちょっとだけ安いですね。
訳者による巻末の「読書ガイド」には既訳との対比を行ってる部分があって、それを見るとこの古典新訳の訳が一番だらだらしてるような(笑)。
原文には忠実というか、精確なのかもしれませんが。
「さりながら」っていう単語がすごく気になるんだよね、この人の訳。
よく出て来るんだよ、「さりながら」。
「今、息をしている言葉で」が売りの古典新訳にしてはちょっと古めかしい。全体の言葉遣いとしては別に「古い」とか「読みにくい」わけではないから、よけい「さりながら」に違和感を感じる…。
岩波は半年に一度の刊行らしいけど、こちらの2巻目はいつ出るのかな。
なんか事件が起こるといいなぁ(笑)。
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