京都国際マンガミュージアムでの内田センセと養老センセの対談を聞きに行ってから、早くも1か月が経ってしまいました。あの時宣伝なさっていたご本がこれ、『日本辺境論』です。

宣伝の甲斐あってか、発売直後には新書部門のトップを走っていましたね(確か新聞のランキングで見た。もし間違ってたらごめんなさい)。

もちろん、大変面白かったです。あの時の対談で話された内容もあったし、普段内田センセのblogで目にしている論点も多々あったのですが、こうして「辺境」という切り口でまとめられると、また一層わかりやすく、思考のよい刺激剤になります。

新書だから分量もほどよく、随所に内田センセのお茶目な部分が出ていて、さくさくと読み進めます。

いつも書いていることですが、ほんとに「語り口の相性」というのは大事だと思います。きっと、「この語り口が性に合わない」という人もいるのでしょうが、私には心地よいです。

さて。いつもながら前置きが長くなりました(笑)。

第1章「日本人は辺境人である」。って、また章ごとに感想書く気か?(笑)

中華思想の中国という国があって、海を挟んだ島国である日本人が「辺境性」を自身のアイデンティティにしたのは仕方がない、という話です。

良くも悪くも中国周辺のアジアの国々は「宇宙論」そのものが「中華思想」になっちゃってるので、そうじゃない考え方ができない。

日本が戦前、韓国を併合したり満州国を作ったり、自らが「中心」になろうとしたのも、「宇宙論」的には「中華思想」で、「中国=中央、日本=周辺」をひっくり返しただけだった。オリジナルの、別個の理論から「周辺の支配」を企んだわけじゃなくて、考え方自体は「中華思想」をそのまま踏襲していた。

自分たちが「中華」になって、文明の光を周辺に及ぼしていく。

日本語や日本名を強制したり、「日本が占領したおかげで教育水準やら何やら色々上がったんだ」という理屈付けは、まさにそうですね。

「侵略」じゃなくてあれは「教化」だったんだ、という理屈。

何千年も前から日本は中国をお手本にして、「教化」されてきているわけだから。

外側に「権威」を置いて、外に「本物」があるという考え方。

外来の漢字の方が「真名」で、自分たちで作った文字を「仮名」と名づけてしまうこの心性。

外国との関係だけでなく、日本国内でも、「権威はシステムの外にある」。これは前に橋本治さんの『院政の日本人』の感想のところでも書きました。

「院政」って、「朝廷」とは別に「院の御所」があって、システム的には「朝廷」が日本のトップのはずなのに、それとは関係なく「院の御所」が一番の権力を持ってて、好き勝手するというシステムですからねぇ。

藤原家の摂関政治にしても、「自分が天皇=中心」になることをしないで、「虎の威を借る」やり方ですし、権力を持った上皇達は自分をもう一度「天皇」にしたり、自分を中心とした新しいシステムを作り出してもよかったのに、そういうことはしないで、「以前天皇だった」「今の天皇の父(とか祖父)である」ということを根拠に、好き勝手する。

そうか、上皇というのも結局「虎(=天皇)の威を借る狐」なんだなぁ。権力の基盤はあくまで「天皇」で、「天皇をトップとする朝廷」というものをつぶしたら、自分の権力も揺らぐことを彼らはきっと知っていたんだろう。

「天皇」は「権威」なだけで、「実質」はほとんどないんだけど。

「征夷大将軍」という名を与えるのも「天皇」だったわけで、「外」に権威があったればこそ、その「権威を嵩にきる」ことができる。だから群雄割拠の戦国時代でさえも、「天皇と朝廷」はつぶされることがない。

「敬っていたからつぶさなかった」ではないでしょう。

もしも織田信長が本能寺で死ななかったら、あるいは彼は「自分=中心」という新たな支配システムを作り出していたかもしれないけれども。

いや、でもだからこそ織田信長は排除されたのかもしれないよなぁ。「自分=中心」として、新たなシステムを作り出そうとする者、何かオリジナルな宇宙論を展開しようとしている者に、その他の日本人が「否」を感じたのかもしれない。

明智光秀の後ろにいたのは誰か、というような議論もあるけど、「こいつをこのままにしていてはマズい」という思いは、周囲の者全員が共有していたのかも。

織田信長を殺したのは日本人に巣くう「辺境性」である!

へへっ、なんかかっこいいゾ(笑)。


日本人は「日本論」が大好きだ、というのは内田センセに言われるまでもなく有名で、これまでにも様々な「日本文化論」が書かれ、内田センセも色々紹介してくれています。

というか、「自分は先達の意見をわかりやすく紹介するだけ」とおっしゃっているほど。

丸山眞男の「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」とか、「変化の仕方が変化しない」とか。山本七平の『「空気」の研究』とか。

KY(空気読めない)って、今に始まったことじゃないんだよねぇ。

実のところこの第1章、読んでるとなんか哀しくなってくる。

他国との比較を通じてしか自国のめざす国家像を描けない。国家戦略を語れない。そのような主題について考えようとすると自動的に思考停止に陥ってしまう。 (P37)

日本人のこの「親しさ」への固執、場の親密性を自分自身のアイデンティティの一貫性よりも優先させる傾向は(後略) (P41)

日本の国民的アイデンティティの中心は、(中略)すなわち、「状況を変動させる主体的な働きかけはつねに外から到来し、私たちはつねにその受動者である」とする自己認識の仕方そのもののうちにあるからです。 (P53)

戦争責任の話とかが参考に出されているんだけど、日本が戦争になだれ込んでいったのはまさしく「空気」だし、「空気」だから誰も責任を取らない、誰も自分に責任があるとは考えない。

戦争に限らず、「つねに被害者意識」とか「場の親密性第一」とか、思い当たる節ありありなだけに……ちょっと、自己嫌悪のような気分になります……。

いつも「外」に「本物」を探し、外を「お手本」にするがゆえに、

「諸国の範となるような国」はもう日本とは呼べないということを私たちが知っているからです。そんなのはもう日本じゃない。 (P90)

うわぁ~ん(泣)。

でもめっちゃわかる……。

内田センセは「こうなったらとことん辺境で行こう」「こんな変わった国の人間にしかできないことを考えていこう」とおっしゃっているのですけど。

2章以降のところを読むと、辺境人が血肉化してきた行動様式・言語等、「これは誇ってもいい」と思えるものもいっぱいあるんだけど。

「自分の正しさを誰かに保証してもらわなくてもいい。それは未来に現実になることによって証明されるだろう」という態度を取りたい、そのような人間でありたい、と思う。

……でも橋本センセや内田センセのご本を拝読するたび、「私は間違ってなかった!」を確認しているよね、私……。

(続く)