ドストエフスキー
『貧しき人々』/ドストエフスキー
4月に買ったまま「積ん読」状態だったドストエフスキーの処女作、やっと読みました。
なんとなくドストエフスキー作品と向き合う気力が出なかったんだよね。やっぱり彼の作品は読む方もエネルギー要るので。
でも、まぁ、これは意外に楽に読めたかな。分量的に短いし、「書簡体小説」だし。
大長編に慣れてる身としては「え?これで終わり?」みたいな。
中年のしがない下級役人マカールさんと、天涯孤独の娘ワルワーラとの手紙のやりとり。
「手紙」だから、お互いが「既に承知していること」は省略されている。読者は「それ」を頭の中で補いながら、読み進めなくちゃならない。
手紙の日付も、毎日ひっきりなしのところもあれば、ぽんと何日か飛んでいるところもあって、注意を必要とする。「行間を読む」どころか、書かれていないことをあれこれ読み込むことで、どんなふうにも面白くなれる作品なんだろう。
私が一つ失敗したのは、先に「訳者あとがき」を読んじゃったこと。
「解説」は読まなかったんだけど、「あとがき」はついいつもの癖で読んじゃった。
大筋がわかっていてもドストエフスキーは楽しめるからネタバレがあっても大丈夫だと思ったんだけど、甘かった。
「書かれていないことを読み込む」楽しみが半減。
まっさらな状態で読み始めた方がやっぱりあれこれ推理できて面白かったんじゃないかな。
普通に、さらっと流して読んじゃうと、「ん?」って感じではあるのよ。
「だから何?」って。
マカールさんに感情移入できる人は少ないだろうし。
40歳だか50歳だか、とにかく「若くはない」中年男がまだ10代の女の子を「私の天使」と崇め、「生きる支え」にして、こうも過剰に心情を書き連ねる……。いや、まぁ、そーゆー人、いるかもしれないけど、隣にいたら相当引くよね……。
ドストエフスキーらしい、「過剰な」人だからなぁ。
そもそもマカールさんとワルワーラがどういうふうに知り合ったのか、そこが書かれていなくって。
もしかしたらたまたま自分ちの向かいの建物に引っ越してきた女の子に心惹かれて、「彼女と手紙のやり取りができたら」という想いが昂じての、「全部マカールさんの妄想」という可能性さえもある。
それにしてはワルワーラの手紙の文章が非常にこなれてて、「うますぎる」んだけど、頭の中で「こんな感じの返事が来て」と妄想しているだけなら、できないこともない。
唐突にいなくなってしまった憧れの女の子の、「いなくなった理由」を勝手に想像したのかもしれない。
「彼女のために何かしたい」と、妄想の中であれこれお遣いに行ったのかもしれない。
最後のマカールさんの「愛しいワーレンカ、私のかけがえのない愛しい人」という「手紙」には日付がない。ワルワーラが遠くへ去り、手紙を書いても届けることができなかったからだろうか。書いても甲斐のない手紙。届かない、でも吐き出さずにはいられない感情。
もちろん、すべてはドストエフスキーの手になる「フィクション」で、すべては「実際には書かれなかった手紙」なんだけども……。
「書き方」「仕掛け」としては面白いんだけど、「夢中で読む」という感じではなかったなぁ。
うーん。
マカールさんもだけど、別にワルワーラにも感情移入できないし。
ワルワーラって、意外に冷めてるよね。マカールさんが「過剰に熱い」からよけいそう思うのかもしれないけど。
ワルワーラが本当のところマカールさんのことをどう思ってるのかもなんか微妙だしな。
もしも全部妄想だったら、もっとワルワーラが「マカールさん寄り」でもいいのかもしれないけど、でも妄想だからこそ「優しいけどつれない」不思議な距離感になるのか……。
色々「深読みしたくなる」、読み終わった後でもう一度、「あれ?もしかして?」と登場人物の言動を最初からチェックしたくなる、という意味ではさすがドストエフスキーではある。
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