1992年に雑誌『Myojo(私的には「明星」の方がピンと来る)』に連載されていた作品の、オールカラー文庫化です。
単行本は1995年に出ているらしいのですが、当然今では絶版で、手に入りません。

巻末の特別対談でも触れられているように、「カラーの本を一度絶版にしちゃうと戻すのは大変」で、よく文庫化してくれたなぁ、と思います。おかげで私もこの本を手に取ることができました。橋本治フリークなのに、今までその存在を知らなかったんだもの。

でも、きっとこの文庫もすぐに入手不可能になってしまいそうなので、皆さん買うならお早めに。

「サクラ草」「紫陽花」「夕焼け」「将来」「お年玉」「沈丁花」といったタイトルの14の掌編が、さべあのまさんのほんわかとあたたかいイラストとともに収められています。

イラストもあたたかいし、橋本さんの文章も、とてもあたたかくて美しくて、ほんのりとして、時々鼻の奥がつーんとなる。

一つ一つのお話が短いから、あらすじさえも紹介するのは難しいんだけれども(あらすじじゃなくて結局全部書いちゃうことになりそうだから)、少年少女を中心とした心の機微が、なんとも素敵に描かれているのですよねぇ。

必ずしも「花」が出てこないお話もあるけど、どの作品も描かれている景色がとてもきれいで、すごいな、よくこんなふうに書けるな、こんなにも気がつくな、と「景色を書けない」私は妬ましくさえ感じます。

橋本さんって、もともとイラストレーターでいらっしゃったし、「景色を見る目」「景色を写し取る力」ってゆーのは、そういうところに根ざしているのかな。

イラストを入れるとなると、そのイラストに合わせて文章の量やレイアウトを考える、ってほどの方ですし。

言葉だけでなくて、「見た感じ」というか、本当に「眼に映る景色」というのかな。
そういうものが「小説」として描けるって、すごい。

「ディテールではなくて“こういう感触ってあるよ”ということを教えたい」というふうに巻末の対談で橋本さんがおっしゃっているのだけど、まさに「感触」だなぁ、と思う。

それぞれの作品に、特に大きな事件というのはなくて、日常のちょっとした感情の揺れ動きがモチーフで、そういうのって、「さびしい」とか「嬉しい」とか、言葉にしたとたん消えてしまう、あいまいな、複雑な、ぼんやりとしたもので、だからその「感情」を直接言葉にする代わり、そこにコスモスが咲いていたり、沈丁花が香っていたりする。

いいなぁ。
うまいなぁ。
好きだなぁ。

本当にね、1冊、早い人なら30分くらいで読めちゃうほどの分量。
子どもでも、たぶんすぐに読める。

そもそも『Myojo』の小・中学生の読者向けに「美しい何かを伝える小説が必要なんじゃないか」と思って、書かれた作品なのだそう。
「教科書に載るような作品を」って。

いや、教科書にはこんな素敵な話、載ってないですよ。

国語の教科書って、なんでか「道徳」の教科書的なお話が多いし、それに「ここで主人公はどう思いましたか」「この作品でコスモスは何の象徴として使われていますか」とか、そーゆー変なツッコミをさせるために載っているものだから。

この「花物語」みたいな作品で、「主人公はどう思いましたか。140字で書きなさい」とか言われてもね。

はっきりと「さびしい」とか「嬉しい」とか言えないがゆえの「心の機微」で、ぼんやりとして、でも「もしかしたらこういうことかな?」ぐらいのやわらかさが、いいところなんだもん。

「ズバリ○○でしょう!」と、丸尾くんのように断言しては面白くない(笑)。

「結局、雑誌ってどこかで“読ませる”という部分がないと、意味がないから」って橋本さん。

昨日の『Vジャンプ』の話をちらと思い出したりしてしまいますが。

コミック誌でさえない広告誌……女性向けのファッション雑誌もほとんど広告だよねぇ。私、全然買わないから詳しくは知らないけど。

17年前に『Myojo』を買っていた小・中学生は、この作品をちゃんと読んでいたのかな。今の子ども達だったらどうだろう。

息子、読むかな???

冒険もアクションも、何にもない、こういう作品を読む機会って、子どもに限らず大人もきっと少ないよね。


ちょっとだけ個別に解説すると、ほんわかとする作品の中で、唯一「え!?」ってゆーのが「夜」。「え、これで終わり!?」ってところで終わる。

怖い。

冒頭の「サクラ草」は、小学校に入学したばかりのジロウ君の話で、橋本さん本人の子どもの頃の「感覚」らしいのだけど、なんとなく、息子が幼稚園に入園したばかりの時、彼の内面ってこうだったのかな、って感じがした。

うちの息子、1学期の間ずーっと、外遊びになると玄関のところでただ突っ立ってる子だったんだよね。中でお遊戯とかするのは大丈夫なんだけど、外でみんなが「わーっ」となってるとこには入っていけなくて。

でも別に、泣くでもなく、幼稚園に行くのを嫌がるでもなく、むしろ嬉しそうに園歌を歌っていたりして。

「みんなうるさくて、勝手なことばっかりしゃべってる」って、作中のジロウ君は思うんだけど、そういう感じだったのかな。

うーん、というか、私自身が今でもそーゆー感じ?(笑)

「夏休み」は、おじいちゃん・おばあちゃんが田舎の家を引き払って一緒に住むことになったトシオ君の話。

畑仕事をする必要がなくなって、家でテレビ見てるしかないおじいちゃんの「何にもしてない」様子が落ち着かないトシオ君の気持ち、なんかわかる。

「コスモス」は、たびたび実家に孫を見せに帰ってくる姉と、孫にキャーキャーなってる親がうっとうしいマスミさんの話。

何よ、子どもなんて。というマスミさんの気持ち、めっちゃわかるなぁ。私もそうだった。孫が生まれたとたん掌を返したようになる親の態度にむかつく気持ちもわかるし。

赤ちゃんを可愛いな、と思えるようになっても、やっぱり家族にはそんな心境の変化を知られたくなくて「知らん顔」してしまうのも、わかるなぁ。

「お年玉」では、男の子と女の子の「意識の差」が面白い。男の子の気持ちも女の子の気持ちもわかっちゃう橋本さん。「桃尻娘」シリーズの、あの「……」だらけのページを思い出す。

男の子と女の子、全然ずれてるんだけど、ずれて勝手に思い違いをしてこそ「恋」は生まれるのだよね(笑)。

「将来」も好きだな。

農業がメインの田舎で高校生をしてて、卒業したら町へ出て就職しなきゃいけないのかな、私はこの「田舎」が大好きなのにな、って思ってて、でも大っぴらにはそれを口に出せないミサエさん。

「“大変だけど、でもそんなこと平気だ”って言える自信がないのって、なんか、つまんなくていやだな」と思うミサエさんが好き。

子どもだった時、思春期だった時。

自分の中に、「その頃の自分」はまだ、きっといるはずなんだけれど、でもやっぱり、もう一度小学校に入学することはできないし、もう一回17歳のお正月を迎えることもできなくて。

なんか、読んでて、「いいなぁ、もう一回子どもやりたいなぁ」って思ったりした。
「こういう感触で、世界を見たいなぁ」って。

……こんな言い方したらまるでもうどーしようもない「すれっからし」になっちゃってるみたいやけど(笑)。

今だって、感じられないわけじゃない。

でも「大人」が「子ども」と一緒になっちゃったら、やっぱり「大人」の意味がないし。大人には大人の、「こういう感触」も、きっとある。

そして、子どもの「こういう感触」も、忘れなければいいことだから。


ところで。

「花物語」というタイトルを見た時に、小学生の時、家にあった壷井栄さんの『私の花物語』を思い出したんだよね。

自分で買ったんじゃなくて、もらったんだと思うけど、偕成社文庫のもの。

読みながらボロボロに泣いた。

久しぶりに読みたくなってAmazon見たら、もう絶版みたい。図書館にあるかしら。