思ったより薄くて、字も大きくて、あっという間に読めました。

鷲田さんと内田さんというと、2008年新春に新聞に載った「幼児化する日本」という対談が面白くて、それでこの本も読んでみたいなぁ、と思って図書館で借りたんだけど、その新聞対談がまるごと再録されていました。

後ろの「初出」を見ずに読み始めて、「あれ、これ読んだことある、知ってる」と思ったら、あの対談だった(笑)。

もう一回読めて嬉しいような、せっかくだから同じテーマでもっと掘り下げてほしかったような。

対談部分についての感想は、2008年1月8日に記事にしてあります。(『幼児化する日本〜内田樹さんと鷲田清一さんの対談〜』) もうあれから1年経ったんですねぇ。っていうか、内田センセのblogを読み始めたのって、あれがきっかけだからまだ1年なんだ。なんか、もっと昔からずっと拝読していたような、すっかり「よく知っている方」のような気がしてました(笑)。

内田センセもblogの更新頻度が高いので、毎日のように読んでたらそりゃ「知ってる人」のような気にはなりますね。もちろん、一方的にこっちが知ってるだけなんだけど。

この本には、内田センセの文章が『大人の「愛国論」』、『呪いと言論』、『もっと矛盾と無秩序を』と3本入っていて、後ろの2本は書き下ろしなんだけど、「これ、blogで読んだことある」(笑)。

いつもただで文章を読ませてくれる内田センセ。それでも著書も売れるんだからすごいな。

でも改めてこうして「本」で読んで、やっぱり内田センセの考え方ってすごくいいな、と思います。内田センセって、なんていうか、「個別的・表面的には意地悪かもしれないけど、本質的にはいい人」だよね。すごく「まっとう」というか。

「まっとう」なこと言うと、「ヤな奴」と思われる世の中ではあり、内田センセを「ヤな奴」だと思う人は多いんだろうなぁ(笑)。ご本人がこう、「敵を作っても平気」というか、「おもねない」という覚悟をお持ちだし。

「愛国論」なんか、私はすごくうなずけるんだけど、自分じゃ怖くてとてもこんなこと書けないって思うし。

意を尽くして説明しても、いわゆる「愛国者」の人達にはきっとこんな考え方は理解できないんだろうなぁ。人間って、哀しいことに「自分の見たいものしか見ない」ものだから。

……って、そう言う私だって「自分の見たいものしか見ていない」かもしれないんだけど。でも1億以上の国民が存在する「国民国家」で、「同胞」と思えるような「親密で均質な集団」を作るのは無理というもので、従って現代の「国民国家」において「愛国的である」ということは、「不愉快な他者」を隣人として受け容れることである、という考えは、しごく「まっとう」なことだとやっぱり思う。

自分と考えの違う者を排除して、その結果「理想の国を作る」なんていうのは、ねぇ。そういう「思想統制」を、誰も望まないでしょ?

じゃあ自分がどこかの国の「国民」であるという意識は何によって担保されるのか、という議論になるのかもしれないけど……でも、私が「日本人」であるのはたまたま「日本」に生まれたからで、人は生まれる国も時代も選べない。日本に生まれて、その風土の中で育って、「ひらがな日本美術史」に出てくるような「日本」が大好きだと思えるから、私はそれで十分だと思う。

自分や自分の家族が暮らすこの「日本」が少しでも住みよい国だといいな、そのために自分もできることをしなくちゃな、と思うことが「日本の国民である」という意識で、共有しなければならないものはそれだけのような気がするんだけど。

……『呪いと言論』とかにも言いたいことがあったのに、長くなってしまった。また別口で書くことにしよう。

あ、鷲田先生の文章の方は。

内田センセに比べると、分量少ないです。

『「弱い者」に従う自由』はなるほどな、と思いました。鷲田先生の文章の方が、ちょっとわかりにくいというか、難しく感じたのは、単に内田センセの文章には慣れてるからかな。内田センセは「ズバズバ」と明快で、鷲田先生はヴェールでくるんであるような感じ。「えーっと」ってその言わんとするところを推し量らなければいけないような……。

すぐ読めるので、みなさんも図書館でどうぞ(笑)。