『ひらがな日本美術史』を読んでいて、ふと、「そういえば東大寺って、聖武天皇が建てたんだよなぁ」と思った。
「法隆寺は聖徳太子だし」とか。
そんなこと、もう中学生ぐらいで習うことで、じゃなくても一般に有名な話で、「何あたりまえのこと言ってんの?」ではあるのだけど。
だって、東大寺も法隆寺もお寺だよ。
お寺ったら仏教のための建物だよ。
でも天皇って、「神を祀るもの」でしょ?
その人自体が、神に繋がる、神の子孫ともされている人じゃないの?
聖徳太子は天皇にはなっていないけど、皇族で、天皇を補佐する立場にあった。その人が法隆寺を建てて、「聖徳太子がいなければ、日本に仏教が広まるのはもっと遅くなっただろう」なんてふうにも言われている。
聖武天皇は各地に護国寺を建てて、その総本山として奈良に東大寺を作り、大仏を作った。
神を祀る最高神官であるような人が、「鎮護国家」のために求めたのは、「神様」ではなくて「仏様」だったんだ。
『双調平家物語』や『権力の日本人』を読んだ時にもこういうことは思って、古代の「天皇」と、明治維新で「あらひとがみ」にされてしまった、「国家神道における神様」的な「天皇」との間には、ずいぶんと断絶というか、距離があるなぁ、と思ったのだった。
孝謙女帝なんか、墨染めの衣で大嘗祭に出席したとか、どっかに書いてあったもんね。
彼女は道鏡に洗脳されていたんだ、特別だ、だから女の天皇はダメなんだ、という話にされてしまうことかもしれない。
でも、「僧服」で「神事」を執り行うのはあんまりだとしても、「神を祀るもの」である天皇が仏をあがめ、寺を建てたり出家したりするのは、普通のことだった。
戦国時代になるとすっかり天皇の動向なんかどーでもよくなってしまうけど、平安時代の後半は「出家した天皇=上皇」による「院政」の時代で、天皇はさっさと譲位して法皇になって実権を握る、ということがパターン化していた。
「今上帝」である限り、実権は藤原氏にあって、自分は「お飾り」でしかない。だからさっさと譲位して、「天皇の父」として権力をふるう。
別に必ずしも「出家して法皇になる」は必須条件ではないような気もするけれど、本来「世俗を離れる」ための「出家」が、天皇においては逆転して「世俗に戻る」儀式のようになっていたのかもしれない。
「本地垂迹」という便利な説もあることだし、「神を祀るもの」が仏教に帰依してたって、私は全然かまわない。
ああ、日本的で嬉しい、とさえ思う(笑)。
明治維新の「廃仏毀釈」は、江戸時代に寺が「役場」の機能を持っていたりして、宗教的側面よりも「幕府というシステムの一部」的な側面が強くなっていたこととかあると思うんだけど、天皇を「あらひとがみ」にして「国家神道」を推し進めようとした人たちは、「天皇が作った寺」とか、「平気で出家していた天皇や皇族」という歴史については、どう思ってたんだろう。
無視かな?
あの時代はあの時代、今は今、だったのか。
聖徳太子以前の「古き良き日本」(古すぎる……)に還りたかったのか。
単に江戸時代的なものを全部壊して、自分達が権力を握りたかっただけなんだろうな、とは思うけれども。
「日本古来のあり方」とか言った時に、「その日本」は「どの日本」を指しているんだろう、と思ったりもします。
社会・政治
2 Comments
藤原氏への反発が、大寺院や大仏の建立
返信削除そして、僧服でっていうのは解る気がするけど
ホント、こうやって改めて提示されると
そこんとこどうやって納得してたんでしょ?
不思議デスぅ
��Cats' oh!様
返信削除日本古来の「八百万の神様」っていうのはきっと、すごく「ゆる~い」ものだったんちゃうかなぁ、と思うんですよ(笑)。
非業の死を遂げた人は怨霊になって「祟る」から「神様」にして祀っておけ、とか、「すごくありがたい強い神様」もいれば「もとは普通の人間」の神様もいっぱいいて。
古代の天皇が神事で祈っていたのはやっぱり「五穀豊穣」とかだったんだろうし、もっと「哲学的」な、「精神的な支柱」として聖徳太子や聖武天皇は「仏」を求めたのでしょうね。
ということを、明治政府や天皇自身はどのように考えていたんでしょうねぇ……。
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