『悪霊』の感想を書く時に、ブッダのことを確認しようと思って橋本治さんの『宗教なんかこわくない!』をぱらぱらめくっていたら、面白くってつい最初から全部読み返してしまった。

もちろん、他に読みたい本がたくさんあるので、「最初から全部」と言っても「ざっと」だけど。

最後の方の、「西洋と東洋の死生観の違い」というところが実に興味深かった。
「死生観」というか、「輪廻転生を信じるか否か」ということに関して、インドから東は「信じる文化圏」。西は「信じない文化圏」。
でもどちらも「魂の不滅」は信じている。
東洋では、不滅の魂は輪廻転生をくり返し、何度も生きる。ただし、それが「人間として何度も生きる」とは限っていなくて、前世はゴキブリだったかもしれないし、来世はカブトムシかもしれない。
西洋では、死んだ後「最後の審判」が来るまで魂はずーっとどっかで待っていて、裁かれた後で天国か地獄へ行って、そこで永遠に「生きる」。

西洋の「魂の不滅」は「自分の魂の不滅」で、天国に行く時はその魂の入れ物としてやっぱり「自分の肉体」が復活することになっている。
それじゃどう考えても「魂の不滅」じゃなくて「肉体の不滅」じゃん……と橋本さんが解説してくれる。

ああ、なんか、すごくよくわかるなぁ。
前に読んだ時はこの個所にそんなに「おおっ!」と思わなくて、前段の「オウム真理教」の話の方により多く目が向いてしまったんだけど、もはや「地下鉄サリン」から13年が経過して、彼らの印象がぼんやりしてきてしまうと、違う部分に興味をひかれる。

私はやっぱり、「ずーっと先の最後の審判」よりも、「現世での自分の行いの如何でゴキブリに生まれ変わったりまた人間に生まれ変わったりする」の方が、納得がいく。
そりゃ、ゴキブリに生まれ変わるなんて……と思うけど、それが嫌なら「現世で徳を積めばいい」わけだし、人間が生まれる場所やその親を選べないっていうのも、「前世の行いによって決まったこと」と思うと、多少は納得できる。

キリスト教では、「自分がこういう境遇に生まれてきたこと」はどういう理屈で説明されてるんだろ。
すごーく貧乏で、犯罪に走るしかしょうがないような境遇に生まれたことは、「最後の審判」の時に「情状酌量」してもらえるんだろうか。

現代のクリスチャンの方は、本当にそういう、「ずーっと先の最後の審判」と、その後に訪れる「神の国」みたいなものを信じてらっしゃるんでしょうか。

「追いつけ追い越せ」と言って目標にしたのがヨーロッパの、キリスト教圏の国々だったもんだから、なんとなく、「(唯一神への)信仰を持っているのが文化的」みたいな気がして、日本人は「宗教がわからない」ことに妙な引け目を感じてしまう。
日本の中での「信仰を持っている人」、つまり、多くの新興宗教の信者とか熱心なクリスチャンとかには、「変わった人だな」という視線を向けるくせに、それが西洋の人々だと、「何も信仰していない自分の方が悪い」みたいな気分になる。

チョットイイデスカァ。
アナタハ神ヲ信ジマスカァ?

道端でこーゆーことを訊かれることが、ホントにあるのかどうか知らないけど、こう訊かれたらどう答えます?
私は、「信じない」。
「少なくとも、一神教の神様は信じない」。

私は神社仏閣めぐりが好きで、お参りしたらお賽銭あげて「まんまんちゃん、あん!」とやるんだけども、「神様を信じてない」と言ったら、一体何に向かって祈ってるんだ?と言われるでしょう。
神社の神様って、一神教の「神様」とは立ち位置が全然違うでしょう。
「まぁ、祈ったらなんか御利益あるかもしれない」程度で(笑)。

私が神社仏閣が好きなのは、そういう所って「鎮守の杜」とか、やっぱり静謐な、他とは違った「場」になってて、景色も空気もきれいだったりして、なんかこう、「心洗われる」から。
古い建物、古くからの信仰。人々がそこでずっと祈ってきた、っていうそのパワーが「神様」になってると思うのよね。「神様」とは人の心が求めたものだし、「想い」とか「祈り」にはパワーがあると思うから。

人を救うのは神様じゃなくて人間です。

日本じゃそもそも、「人間が神様になる」がいっぱいあるもんね。
「非業の死を遂げた人は神様にして祀っとかないと祟る」っていうやつ。「学問の神様」菅原道真公も元はといえばそういう神様だし。

「祟られるとヤだから神様にしとこう」だもんね。
ありがたいんだかありがたくないんだか。

でもやっぱり、「唯一絶対の神様」よりは、「とりあえず祀っとけ」の神様の方が信じられる(笑)。
水の神様とか、竈の神様とか、そーゆーのって、「人間にはどうしようもない自然の力」とか、「不可知なもの」に対する畏敬の念から出てくるもので、「決して人間の力におごらない」という意味で、必要なものじゃないかな。
「自分の頭で考える」は重要だけど、それで「自分」を「神様」にしちゃうとやっぱり歪むから。

『“宗教”とは、「まだ人間達が自分の頭で十分にものを考えられない時期に作り出された、“生きていくことを考えるための方法”」なのである』と、橋本さんはおっしゃっている。

『「宗教が理解出来ない」などという不思議な劣等感を持つのは日本人だけだ。誤解しない方がいい。「宗教を理解する」あるいは「宗教とはなにか?」を考えるということは、「もう宗教というものはいらない、もうこの宗教はいらない」と考えられる人間だけが出来ることで、そんな人間の集団は、日本人の集団だけなのだ』とも。

ああ、すっきりした!(笑)。