この間文庫版5巻が終わりそうと言っていたが、現在もう7巻目。面白くてやめられないのはいいのだが、あまりにどんどん読み進んでいるため、「ここは!」と感動した箇所を覚えておくのが難しくなってきた。
これでもか、というぐらい色んなことが起きて、色んな魅力的な人が出てきて、「なるほどなぁ」と思うことが多い。

単行本のⅡ巻にあたる「ハンニバル戦記」は、スキピオがハンニバルを破ってめでたしめでたし……というところでは終わらない。
カルタゴ滅亡を眼前にして、勇将スキピオ・エミリアヌスがこんな感慨を述べるところで終わる。

「この今、わたしの胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかはわがローマも、これと同じときを迎えるであろうという哀感なのだ」(5−200)

カルタゴ滅亡は紀元前146年。
日本の『平家物語』は12世紀の話だけれども、ずっとずっと昔から、驕れる者は久しからず、盛者必衰の世の中である、ということを、人はちゃんと認識していたのだな、と思う。

第2次ポエニ戦役はカルタゴとの戦いというよりは、ハンニバル個人との戦い、という色合いが濃かったとはいえ、あれだけの長きに渡って苦しめられたカルタゴの、その滅亡の様を目にして、「ざまぁ見ろ」と思うのではなく、「いずれ自分たちも同じ運命をたどる」と思えること。

強大な敵であったればこそ、「あれほど繁栄していたのに滅びるのか」という感慨が深かったのかもしれないけれども。

カルタゴは、ローマによって完膚なきまでに破壊される。
でもそれ以前のローマは、敗者に対して非常に寛大だった。第2次ポエニ戦役の終了時でも、あの憎きハンニバルを処刑するわけでもなく、カルタゴを自国領にしたわけでもなかった。

「ローマ人は、敗者との間の講和を結ぶに際し、復讐に眼がくらむようなことはなかったのである」(5−88)
「それは、報復ではなかったし、ましてや、正義が非正義に対してくだす、こらしめではまったくなかった。戦争という、人類がどうしても超脱することのできない悪業を、勝者と敗者でなく、正義と非正義に分けはじめたのはいつ頃からであろう」(5−88)

ローマが寛容でなくなり、カルタゴを滅亡させざるを得なくなったのは、敗者が勝者の寛容さを理解できなかったからだった。
寛容さには何か裏があるのではとして信用しない。
あるいは、寛容さを“弱腰”と見てまたぞろちょっかいをかけ始める。

「ローマの指導者たちは、他民族への寛大なやり方が反対の結果にしか結びつかないことに苛立ち、そのやり方を変えるべきではないかと思いはじめていた」(5−187)

なんというか……人間ってやつは、と思ってしまう。

カルタゴを滅ぼし、大国になったローマは「勝者の混迷」の時期に入る。
一致団結して闘うべき外敵がいなくなって、国内の貧富の差や色々なシステム上の不具合が目立ってくるのだ。
既得権益を手放したがらない上層階級と、「不公平だ!」と声を上げる中・下層階級。

読んでいると、「これって2000年前の話だよね?」と確認したくなるほど、「どっかで聞いたような話」だったりする。

人間は本当に進歩しているんだろうか。
人間は、過去から何も学べないのだろうか。