先日、長く阪急ブレーブスの監督を務められた上田利治氏が亡くなられました。

第一報を耳にした時ももちろんとても寂しく思ったのですが、翌日改めて新聞でじっくり上田さんの記事を読んで、涙出てきたんですよね……。

ちょっと、自分でもびっくりしたんですけど。

往年の阪急の名選手、山口高志氏や福本豊氏のコメント読んでたら、ぶわぁっと。

このblogでも何度か書いたことがあるとおり、父親が熱烈な阪急ブレーブスのファンだったので、私も強制的に阪急ブレーブス子ども会に入らされて、何度も阪急西宮球場に足を運んでいました。
(※子ども会の景品写真が載っている記事こちら

まぁ当時の私がどれくらい野球が好きだったか、阪急が好きだったか、今となってはよくわからなかったりもするんですが。

球場に行けばアイスやジュースを買ってもらえるし、「レジャー」として楽しんでいたんじゃないかなぁと思います。子ども会のおまけのスコアブックでスコアつけてたこともあったし。

で、そんな子ども時代にずっと監督でいらしたのが上田さん。途中2年間梶本氏が監督だったことがあるんですが、そんなこと今ググるまで忘れていたぐらい、阪急といえば上田さん、上田さんと言えば阪急。

オリックスへの衝撃の身売り発表の後、「阪急ブレーブス最後の試合」も見に行ったんですよね。仕事で行けなかった父の代わりに、母と二人で……。父が買ってた年間パスは当然一人分だったんですが、「最後やし見せて!」とかゴリ押しして二人で入ったような記憶が……。最後やし指定席が売り切れてたとかそんなんやったかな……ちょっと、さすがに細かいことは忘れましたが、ダブルヘッダーやったような気も。

紙の日記引っ張り出してきたらその日のことも書いてあるはずなんですけど。

試合後の挨拶で上田監督、謝ってはったんちゃうかな。自分が不甲斐ないせいで身売りされた……みたいな。

今回、『「パ」興隆の礎築く』と題された記事があって、なんというか、面はゆい気がしました。あの頃、ほんとにパ・リーグの試合なんてテレビ中継ほとんどなくて、クラスの男子に「野球見に行った」って言っても「なんや、甲子園ちゃうんか」って言われる始末で。

どんなに勝ってもスポーツ紙の一面はタイガースでね……。


阪急の記憶は父親の記憶と結びついてるから、ただ上田監督の死去が寂しいだけでなく、またひとつ父親にまつわるよすがが消えていくんやなぁ、と思って泣けてきます。

もしもまだ「阪急ブレーブス」というチームが残ってるのなら――阪急西宮球場でまだブレーブスの試合が行われているのなら、少しは寂しさが紛れると思うのですが、球場もブレーブスという名前も消えた上に、「バファローズ」というかつてのライバルチームの名称になって、神戸グリーンスタジアムさえも本拠地からはずされてしまって……。

上田監督死去の今この時、他のチーム出身者ではなく福良氏が監督だったのだけはブレーブスファンとして救いやったなぁ。


これも折に触れしつこく書いてることですが、子ども時代を思い出すよすがである宝塚ファミリーランドも今はなく、育った家もなくなり、その近辺に身内が住んでるわけでもお墓があるわけでもなく、「全部消えていく」感がすごいです。

阪急ブレーブスのことも母や弟にしか通じひん話やし、もしも私が一番長生きしたら、「またおばあちゃんがなんか昔のわからん話してはるで」ってことになるんやろなぁ。

年を取ると身内はもちろん、親しい人やものがどんどんなくなっていって、思い出を共有してくれる相手がいなくなっていく。

義理の祖母が晩年、そういう「家族ですらよくわからない昔の話」をくり返して、冷たくとは言わないまでも「はいはい」という感じで受け流されてたことを思い出します。こっちとしては本当にわからへん話やし、しかも「同じ話を何度も」なのでどうしてもテキトーにスルーしてしまったんですが。

逆の立場になる日ももう遠くはない……。


上田監督、阪急黄金期をありがとうございました。あちらでもしうちの父に会ったら(きっと会いに行くと思います)よろしく相手をしてやってください。

合掌。