ずっと気になっていたこの『東洋の哲人たち』。めでたく文庫化されたので早速手に取りました。

めちゃくちゃ面白い!

素晴らしい!!!

最初にこの本のことを知ったのは、確か『世界十五大哲学』を読んだ時です。

リンク先の感想記事にも書いていますが、ソクラテスからサルトルまでの西洋哲学の流れをまとめたこの『世界十五大~』を読んで、「“世界”って言うけど東洋哲学入ってないよね?」「東洋哲学をこういう感じで“全体の流れ”+“個別の要点”という形でまとめてくれてる本ないのかな?」と思ったのです。

で、検索して出てきたのがこの『東洋の哲人たち』だったのですが、当時はまだ単行本しかなく購入は躊躇。もよりの図書館にもなくて「読みたい本リスト」に入れたまま数年……。

河出書房さん、文庫にしてくれてほんとありがとう。おかげで買えました。読めました。

くり返しになりますがめちゃくちゃ面白いです。しかもわかりやすい。東洋哲学の「流れ」もわかるし「個別」もわかる。正直『世界十五大哲学』は半分以上何言ってんだかわかりませんでしたが、こちらはたとえに「ガンダム」が出てきたり、ニコ動風画面のイラストが出てきたり、すーっと頭に入ってきます。

『十五大哲学』の感想に、「なんかこれ、私の思う“哲学”と違うなー」「もっとプライベートな、“私とは何か”みたいなことを知りたいんだけどなー」と書いていたんですが、それも道理。西洋哲学は、そーゆーものではなかったのです。“私”は東洋哲学の領分だったのです。

すなわち、西洋は「人間の外側」にある「何か」について考えたのだと言える。しかし、東洋の場合は、それとはまったく異なり、哲学者たちはみな、「自己」という「人間の内側」にある「何か」について考えた。そう、東洋と西洋は「関心のベクトル(方向性)」がちょうど逆だったのである。 (P30)

え、西洋哲学は「自己」について考えないの?え???――って感じですが。

紀元前の昔から「自己」について考えていた東洋哲学。なので20世紀の大哲人サルトルが到達した「私」に関する卓見と同じことを、古代インド(紀元前600年ぐらい)の哲人ヤージュニャヴァルキヤさんがすでに言っていたりします。

それは「私は私自身を認識対象にできない」「私は“~にあらず”という否定的な言葉でしか表現できない」ということなんですけど、インド人すごいっていうかヤージュニャヴァルキヤさんすごい。

ちなみに仏教の祖お釈迦様は紀元前5世紀頃の人とされていて、ヤージュニャヴァルキヤさんはお釈迦様よりもちょっと昔の、いわゆるウパニシャッド哲学の人。

大学で「インド哲学入門」という講義を受け、危うくインド哲学を専攻しそうになった人間としては「おおおおっ、うぱにしゃっど!懐いっ!でも何だったのか覚えてないっ!」みたいな(笑)。

「梵我一如」という東洋哲学の真理はすでにヤージュニャヴァルキヤさんが確立(というか到達)してしまっていて、あとは同じように「それ」を体得した人たちがどうやって他の人に伝えていくか、その方法論を模索する……みたいな感じです。

探究対象が「自己(内側)」か「非自己(外側)」か、という点で東洋と西洋はベクトルが真逆なんだけども、この、「真理への到達」という部分でも、東洋と西洋は真逆です。

西洋哲学は、ソクラテスの時代からずーっと積み上げて、思索をどんどん練り上げ洗練させて、「いつか真理に到達しよう」という感じなんだけども、東洋哲学は違う。東洋の哲人はもういきなり「真理に到達している」。

少数の天才がいきなり真理を会得しちゃって、で、その天才は崇められて教祖になっちゃう。「東洋哲学の系譜って結局宗教史になっちゃうな」と『十五大~』の時に思ったけど、この本読んで「なるほどそれでか」って納得しました。

東洋の哲人はいきなり悟るし、で、その「悟り」は万人にわかりやすいものじゃないから周囲は悟った人を崇めるし、「つまりそれはこーゆーことですか?」と一生懸命解釈しようとして、その解釈の仕方の数だけ「宗派」ができる。

そしてそして。

東洋と西洋の「真逆」はまだある。

論理は「伝達可能」を前提とする。他人に伝達できないことを前提とした論理なんて聞いたこともないだろう。ゆえに論理を基盤とする西洋哲学は、当然(言語による)伝達可能を前提とした体系となる。 (P327)

西洋哲学は「論理」だけど東洋のそれは「論理」じゃない。東洋哲学の真理は言語化できない。というか「言葉で名前を付けることによって僕たちは世界に境界線を引いて認識してるけど、ホントは世界ってもっと混沌としてるよね?」と考えるのが東洋哲学なのだ。

つまるところ、僕たちは「ある要素の集まりからある部分だけを切り出して名前をつけているだけ」であり、その名前にあたるものが『独立した確固たる、永遠不変の何か』としてそこに存在しているわけではないのである。 (P134)

いっさいの言葉は、「世界にあるモノ(実体)」を指し示しているのではなく、ホントウは何らかの価値基準に従って世界に引いた、区別のための境界線を指し示しているのである。だから、言葉とは「区別(境界線)そのもの」だと言ってもいい。 (P157)

そういう言語による区別=「分別智」を超えたところに梵我一如の境地=「悟り」がある、というのが東洋哲学なので、実のところ東洋哲学の真理は言葉では説明できない。言葉で説明されてわかったような気になっても、それは全然「悟り」なんかではない。

なので東洋哲学に関する本をどれだけ読んでも「悟る」という意味では無駄なんですけども(笑)。

でも。

ほんっとに面白かったです。そういう、「言葉はただ人間が思い込みで線を引いているだけ」っていう東洋哲学の考え方自体が面白いのはもちろん、飲茶さんの語り口がとても楽しくて、かつ熱い。

なんかねー、最後、感動してうるうるしちゃいましたもん。

東洋哲学の真理に到達した――つまりは“悟った”人は、その後どうなるのか? 悟ったからって不老不死になるわけでもないし、病気もすれば怪我もする。肉親の不幸にも遭うでしょう。一部の人からは崇められるかもしれないけど、だからってお金持ちになるとも限らない。

“悟り”のその後。

それを語る飲茶さんのお言葉がねー、いいのですよ。

ちなみに、「仏」像とは、その「目覚め」に達した人の姿を現したものであり、人間にはそのような「目覚めの可能性」があることを指し示す象徴として造られたものである。だから、仏像とは「希望」であり「救い」であり「人間賛歌」なのである。 (P356)

という文章があったけど、なんかこの本自体がそういうもののような気がします。
 

あまりに面白かったのでやっぱり西洋哲学編も読んでみようと思うのですが。


東洋読んでから西洋読むと、「どれだけ理屈を積み上げても“言葉”はただの境界線だからさー。私は世界をこう把握している、って話にしかならないよねー」と思ってしまいそう(^^;)

飲茶さんご本人も、「西洋」→「東洋」の順に読んだ方がいいとおっしゃっています。


感想つぶやくとすぐに著者さんから反応があるって、ネット時代すごい(^^;)

これから手に取る皆さんは是非「西洋→東洋」の順で!(笑)

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