続きです。(「国(國)」という漢字の成り立ちから日本における一般大衆の位置づけ「ただ住んでるだけ」などについて紹介した「その1」はこちら

明治になって「大日本帝国憲法」というものができ、「ただ住んでるだけ」で別に幕府や武士の家臣ではなかった一般大衆は「天皇の臣下」になりました。

大日本帝国憲法において日本という国の主権者は天皇で、「天皇はなんでも出来る」になっています。正確には「なんでも出来るようになっている」ですが。

「天皇はなんでも出来る」が、「なんでも出来るようになっている」であるのは、天皇以外の誰かがそれをしたからです。 (P79)

「天皇はなんでも出来る」という前提を作っておけば、「天皇がご了承になった」の一言で、明治維新政府はなんでもすることが可能になってしまうのです。 (P82)

具体的に天皇が「なにかをする」というわけではなくて、天皇は「ハンコを押すだけ」。最終的に決定する権利を持っているだけです。

天皇にハンコを押させさえすれば明治政府はなんでも出来る。

明治政府頭いいなあ、って感じですが、平安時代に藤原氏がやったことを踏襲しているだけではあります。実権を握っているのは天皇じゃなく摂政や関白といった人達で、天皇は幼い子どもでもよかった。むしろ幼い子どもの方が良かった。

藤原氏に取られた実権を取り返そうとする天皇は譲位して「上皇」になることでそれを実現した。

江戸の将軍も天皇から「征夷大将軍」という役職をもらい、「日本のすべての土地を管理していいよ」というお墨付きをもらって、日本を統治していたわけです。(「天下を統一していた」の方が当時の実感に近いかしら)

日本ではこの「お墨付きをもらう」がとてつもなく重要なんですよねぇ。

江戸時代、土地はお殿様のものでも将軍のものでもなく朝廷のものだったけど、重要なのは「所有すること」よりも「保証されること」だったからそれで全然OKなわけです。

「そこからの上がりはおまえの自由にしていいよ」という保証を朝廷が幕府に与え、幕府が武士に与える。

自分がトップに立つより「トップにハンコを押させる」立場の方が楽、って気づいた最初の日本人すごいよね。

天皇は名目上支配者だけど実質は「ハンコ押すだけ」で、「ハンコ」が意味を持つのはそのハンコをありがたがって「錦の御旗」として振り回す人がいるから。ハンコをもらう人たちはそのハンコによって権力を振るうお墨付きを得るわけだけど、そういう人々が周りにいて祭り上げるからこそ「ハンコ押す人」にも権威が宿るわけで。

相互補完っちゅーの?

日本の謎なシステムは平安時代にはもう完成しちゃってその後は「ハンコをもらう人たち」が変わっていくだけなのよなぁ。

平安時代の貴族は領主貴族ではなく「官僚貴族」で、江戸時代の武士も自分で土地を持っているわけじゃなく幕府から管理を任されるだけの「官僚武士」。

「天皇とそれを支える官僚=お上」が内々で全部回していて、その他大勢の農民や町民は「ただそこに住んでるだけ」という……。

未だ「国民主権」がピンと来ないのも仕方ないなぁ、と思ってしまいますが。

橋本さん、ファンタジーの世界がたいてい「王国」なのもそういうことだ、っておっしゃってます。人類の歴史では「支配者がいる」時代の方がいない時代よりずーーーっと長いので、「王国」とか「帝国」とかいう世界設定の方が呑み込みやすいのだと。

「頭の中はまだファンタジー」という一節、「国家主義について」と題された第四章に出てきます。

この、第四章がまたすごい!

「国家主義」って英語で言うと「ナショナリズム」ですけど。

まだ「国民国家」になっていない、たとえばどこかの国の植民地にされている地域・民族が「自分たちの国を持ちたい」と思ったとき、それを「ナショナリズムの高揚」と言ったりします。

早い話、「国家主義」は「国家になりたい主義」(後略) (P142)

なのですが、すでに「自分たちの国家」ができあがっていても「ナショナリズム」は登場します。それは「国家が危機にさらされている時」です。

でも「国家の危急存亡の危機」ということは、言われはしてもそうは起こりません。それよりもずっと多く起こるのは、「国家の危機を囁く声が生まれる」です。 (P143)

ふふふ。

不穏ですね。

いかにも、という気がいたします。

この後繰り広げられる「国家に関する不安の表れ」としての「国家主義」のお話はもうほんとにすべての文章に赤線を引きたいぐらいの面白さです。

「国家に関する不安」から生まれた国家主義は、「国家とはなににもまさって存在する至高のもので、個人のあり方より国家のあり方を優先する」という方向へ進みます。 (P146)

そして、謎というのは、それだけのことが分かっていて、どうして国民の国家の中で「個人のあり方よりも国家のあり方を優先する」という考え方が生まれてしまうのか、ということです。 (P150)

本当にね……これ、謎なんですけど。

その一つの答えとして「頭の中はまだファンタジー」という話が出てくるのです。まだまだ人類は「支配者がいる」状態の方を「普通」と考えてしまって、「国家は自分たちのもの」「自分たちでなんとかやっていかなきゃいけない」ということを呑み込めない。

「そーゆーめんどくさいことはお上に任せたい」と思って、「代表者」ではなく「指導者」を選ぼうとしてしまう。「強いリーダー」を。

民主主義の政治は「指導者」を選びません。選ばれるのは「代表者」なのです。 (P155)

日本国憲法前文も「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」で始まっていますよね。

中学の時公民の授業で前文を暗誦させられましたけど、この後に続く「われらとわれらの子孫のために」っていうくだりが未だ強く印象に残っています。

「われらの子孫のために」



第四章の終わりには、自民党の改憲草案のことも出てきます。憲法改正というとどうしても9条の話に目がいきがちですが、自民党の草案はそれ以外にも色々と変えています。

いくつか橋本さんは例を挙げ、現行の憲法と草案との違いを比較してくださっています。法律の文章というのは独特の言い回しがあって一般人にはわかりにくいものです。なので草案も一見しただけでは「どこがどう今と変わるのか」わからず、「別に変なところはないんじゃない?」と思えたりもします。

現行の条文から何が削られ、何が付け足されるのか。そのことによって彼らは日本という国をどう変えたいと思っているのか。

自民党の改正案の基本的人権は、「もう保証されているんだから、これ以上ほしがるな」です。そういう考え方がなければ、自民党案のように憲法の第十一条は改正される必要がないのです。 (P195)

自民党の改正案は、歴然と国民を規制する方向に傾いています。 (P196)

第一次安倍内閣で法務大臣を務めた長勢氏が「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」と発言している動画が話題になっていたりするところを見ると(参照したまとめ記事こちら)、この改憲草案、洒落でも冗談でもなくガチなようで……。

国民主権や基本的人権を認めない国民国家の「自主」ってなんなんでしょう。その場合の「自」って誰のことなん……。

いや、ハンコもらって管理を任されたい人たちのことだとは思いますけども。

今現在「お上」の立場にある人たちが、「その他大勢にすぎない国民の言うことなんて聞きたくない」と思うのはまぁ「さもありなん」ですけど、なぜか国民の方もそれを望んでしまうところが怖い。

国家主義になったら、国民は国家に弾圧されるに決まっています。(中略)不思議なことに、自分達の国家のあり方に不安を感じた国民達は、国家主義の方向へ進むことを了承してしまいます。 (P166)

第四章、面白いけど怖いです。

憲法は「国民を縛るもの」ではなく「国家権力を縛るもの」。

国家は「誰か」のものではなく、「我々国民のもの」。

はっきりしているのは、「大切なことはちゃんと考えなければならない」――これだけです。 (P200)

ずーーっと橋本さんが言い続けてらっしゃることですよね、「自分の頭でちゃんと考えよう」。



この本では福沢諭吉の『学問のすゝめ』も取り上げられています。自分で考えるためには「学問」が必要だ、ということでしょうか。橋本さんは今月『福沢諭吉の「学問のすゝめ」』というそのものずばりな本も出されていらっしゃいます。

この『国家を考えてみよう』と『学問のすゝめ』は2冊で1セットなのでは、と勝手に思いつつ、早速ひもといてみようと思います。


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