※以下、ネタバレあります。これからご覧になる方はご注意ください。

前作はライブビューイングでの編集した映像しか見ていない『MOON SAGA~義経秘伝~』。続編となる『第二章』は新歌舞伎座まで足を運びました。

ギリギリまで行こうかどうしようか迷ってて、9月に入ってからチケット取りました。貧乏なので3階席です。後ろから2列目。「昔はよく安い3階のてっぺんから観たものだったなぁ」と旧宝塚大劇場を思い出しましたが、新歌舞伎座の3階は現大劇場の2階よりも舞台が近い感じでした。

ちなみに旧大劇場の3階は800円でしたが『MOON SAGA』の3階は8229円。桁が違う(涙目)。

で。

せっかく今回は大枚はたいて観に行ったのですが。

お話としては前回の方が良かったですねー。もちろん「※個人の感想です」ではありますが。

前の「泣き虫義経」がすごく可愛くて、「観に行けば良かった!」と思って観に行ったら今回はもう泣き虫じゃないという……。いや、ポスター見ればビジュアル変わってるし違うだろうなぁと思ってはいましたが。

前作で心ならずも親友・義仲をその手で殺してしまった「心が壊れたまま」設定の義経。髪に白いものが混じってるのも心労ゆえなのかしら。平教経に「あいつ暗いからヤだ!」と言われちゃってます。

前作でも義経自身はあんまり「動かない」キャラクターだったんだけど、今回もやっぱり「受け身」な感じで終盤まで動かず、さらに「可愛さ」がなくなって「暗い」ので、観ていてあまり楽しくありません(笑)。

その代わりに動きまくって弾けてくれるのが平教経なわけですが。

「平教経編」ってスクリーンに出てくるぐらいですから、むしろ彼が主役と言っても過言ではないです。ちなみに前作は「義仲編」なわけですが、ポスターその他には「○○編」って書いてないんですよね。行ってみて初めてわかるという。

巴と義仲を失って傷心の義経は京都のとある森の中で伝内(でんない)と教経に出会います。義経の従者である伊勢三郎と実は幼なじみという伝内は侠気(おとこぎ)のあるとてもいい奴で、義経を「あの源義経」と知っても攻撃せず、闘おうとする教経を止めたりします。

教経の従兄弟で平家軍の大将ともなっていた(ような気がするが違うかもしれない)知盛は義経と和平を結ぼうとし、もちろん義経の方も「無益な闘いはしたくない」ということで意気投合。源氏と平氏の若武者達は「友」として盃を交わしあう仲になり、知盛と義経は「兄弟」と呼び合うまでになる。

が。

もちろんそうは問屋がおろし大根。

和平など望まない鎌倉の政子の暗躍で若武者達は悲劇へと追いやられていく……。

教経は知盛を「兄者(あにじゃ)」と呼んでいたので最初「あれ?兄弟だっけ?」と混乱しましたが知盛は清盛の四男。そして教経は清盛の異母弟教盛の次男。

『双調平家物語』最終巻の感想に、

特に、都にあっては「人がいいだけの愚鈍な男」と思われていた清盛の異母弟教盛とその息子達が大活躍!
「所を得る」のが遅すぎたというか。なんか、その頑張りがさらにせつない……。
教盛の次男教経、そして役立たずの宗盛に代わって一族の最期を看取った清盛の四男知盛。覚悟を決めて海に沈む彼等は十分に「天晴れな武者」で。


と書いていました。

教経は「平家最強の武者」「平家の鬼」などと呼ばれていたそうです。

でもこの義経秘伝第二章では「細身で女みたいな顔の美少年」として、元タカラジェンヌの悠未ひろさんが演じており、一人称は「僕」。

もうね、なんかね、ヅカファンとして、またアニヲタとして、この教経の造形は非常に楽しかった。

「これ、悠未ひろさんのための芝居じゃないの!?」って思ったぐらい。

女みたいな美少年なのに「猛者」で、予知夢能力者で、悪夢に苛まれ「頭が痛い!」と悶え、その力を封じてくれる田内の膝枕でお昼寝、途中で心を物ノ怪に喰われ狂気に落ち、実の親はじめ一族の者を手にかけ、「斬ったね!僕を斬ったね!」と歓喜の哄笑。

「ほんとに狂ってしまったんだな」と義経に言われ、「それは褒め言葉として受け取っていいかな(フッ」と返す。

たまらんわぁぁぁぁぁぁ。

よく言えば萌え要素の塊、悪く言えばこれでもかの中二病(笑)。

でもそこを元タカラジェンヌの方がやっているおかげで嫌みにならないっていうか、綺麗にまとめられてるっていうか。

もちろんヅカファンの欲目もあると思うんですが、悠未さんは長身(179センチ!)ですらっと美しくて、男役時代よりもむしろ女の子っぽく、少年っぽく演じてらして、教経の弱さも狂気も哀しみも、とてもよく出てたと思うんですよね。

とにかくすごい楽しかった(笑)。

退団後もこんなに思いきり「宝塚的な男」を演じられることってそうそうないですし、宝塚時代以上に「美味しい役」だったような。

まぁ私は悠未さんの在団中の舞台を2つしか見ていなくて、その2つとも「色の濃い悪役」(『銀英伝』のオーベルシュタインと『モンテ・クリスト伯』のダングラール)で、それが「似合ってるなぁ」と思っていたんですが、前半の可愛い教経もすごく良かった。後半の狂った教経はもちろんめちゃくちゃハマってたし。

これだけでも観に行った甲斐あったなー、って思っちゃいました。


「なぜ俺たちが闘わなくてはいけないのか」という哀しみや、「者ノ不の力はない方がいいんじゃないか」「“鬼”を出現させたくない」という義経の苦悩は前作の方がよく出ていた気がするし、何より“陰”が死んじゃってるのがつらい。

前作で、義経を守るため、“閻”と闘って命を落とした“陰”。キャラクターが良かったのはもちろん、早乙女太一くんの美しい佇まいとお芝居がまた!

素晴らしかったんですよねぇ。

陽和(ひより)では全然代わりにならん。

死んじゃってるけどまだ“陰”の魂は義経を見守っている、という設定で、冒頭で、ちょこっとだけ声の出演があります。「もうおまえ(義経のこと)を守ってやれない」みたいなことを言って、「おまえが“鬼”に選ばれたわけは陽和が導いてくれる」と言う“陰”。

前作では子どもだった陽和、大きくなってます。

なんで急に大きくなるんだろう?そもそも「ずっと姿が見えてる」っておかしくない?と思ってたら公式サイトに説明が。

「“陰”が死んだことで呪縛が解け、姿が見えるようになった。また、急に成長した代わりに美しい声を失った」

ということらしい。

あー、陽和が子どもだったのって、“陰”のせいだったの……。

でも、子どものままで良かったよ。

子どもの方が良かったよ。

たいしたこと、してないんだもん。「導くって、え?それだけ?」みたいな扱いだった。

あれなら子どもの姿のままの方がもっと感動できたというか、納得できたような気がする。


“陰”がその命を賭してやっつけたはずの“閻”は政子によってあっさり蘇って教経に取り憑き、クライマックスは教経の中の“閻”と義経の中の“鬼”の闘いになるんだけど。

ここ、一番納得できなかった。

“閻”と“鬼”の闘いの演出。

体に電飾をつけて骨骨マンみたいになったダンサーさん達によって闘いが表現されるんですよ。

は?

ここ、クライマックスなんじゃないの? なんでGACKTさんと悠未さんの華麗な立ち回りじゃないの……?????

義経と教経という人間同士の闘いではない、というのはわかるけど。物ノ怪同士の、とても人の動きでは表現できないものを表現するために、ということなんだろうけど。

でも、そんな電飾人間見に来たわけじゃないし……。

ストーリーの甘さより何より、ここの演出が私としては一番つまらなかったです。
 

うん、あとはそれなりに楽しめたもの。

景時のコメディアンぶりや頼朝の「古畑任三郎」ネタもあって、「休憩なしの2時間45分」という長丁場にも関わらず飽きずに見られたし、全部終わったあとにまた「みんなが一緒にいた場面」を持ってくるあのあざとさも嫌いじゃない。

『サクラ、散ル…』流れるとやっぱりグッと来ちゃうしなー。

しかしこれ、第三章があるんでしょうか???

“陰”が死に、陽和が死に、嗣信も死んでしまって、義経を見守る手駒が足りなさすぎるけど、どうするんだろ。“閻”があんなにあっさり復活するなら“陰”だって蘇っていいけどなー。蘇ってくれ。
 

あと、これは余談というか妄想ですけども、「者ノ不」って要するにSPECホルダーなわけですよね。身裡に潜む“鬼”に怯える義経と、自身の左手のSPEC――亡者の力――の暴走を怖れる当麻。

二人とも、別に望んで得た“力”ではない。

なぜそんな強大な力の“宿主”に自分が選ばれてしまったのか。

世界を救うことも、逆に滅ぼすこともできるほどの“力”。そしてその“力”の発動と引き替えに消えてしまうのであろう“自我”。

当麻には瀬文さんがいたけど、義経にはまだ、瀬文さんのような人がいない。

弁慶や伊勢三郎は義経を慕い、彼につき従っているけど、彼らもまた“者ノ不”=SPECホルダーだ。“陰”は物ノ怪だったし、「何の力もない普通の人間だけど義経の存在を“鬼”ごと全部受け入れてくれる」って人はまだ出てきてない。

……まだ静御前が出て来てないけど、もしかして第三章では彼女がそういう存在として出て来たりするのかなぁ。そういうがっつりヒロインにはあまり登場して欲しくないんですけど(笑)。

1作目の巴御前はあくまで義仲の恋人だったし、今回は女性出てこないし。

まぁ教経はほとんど“ヒロイン”でしたけどね。伝内との絡みでは「おまえは俺の女房か!」とさんざん言われていましたし、エンディングのお月見シーンでも思わず「ホモォ!」と叫びたくなった(笑)。

あの時代「ホモォ!」はタブーでもなんでもなく、出世の手段として使われるぐらい「普通」のことなので、教経が田内その他とそーゆー関係だったとしても全然問題ないです。

うん、美青年には美青年。

女は要らない(笑)。

なので義経を救う“誰か”は美女じゃなくて美青年(もしくは美少年)であってほしいなー。

あ、「静御前は実は男だった」にすればいいのか(爆)。

男だとわかると殺されるので女のふりして生きてきました、舞の名手ですが別にそれは者ノ不的な“力”ではなく努力のたまものです、みたいな。

闘いに役立つような“力”は何も持ってないけど、その無邪気さと舞の美しさで義経の心を慰め、「大丈夫、その時はぼくが殺してあげるよ、義経」とか言うの。

いいな、それ(笑)。

“鬼”に選ばれた義経。その“鬼”の力で、義経は義仲の魂を救い、教経の心をも取り返した。二人とも、肉体は滅ばざるを得なかったけど、人としての心を取り戻し、義仲として、教経として、死んでいくことができた。

魔境に堕ちた友を救うのが、義経が「選ばれた」意味なんだろうか。

最後のシーンで、教経は「自分が死ぬ」予知夢を見ることを怖れ、義経は「仲間が死んでいく」ことを怖れていた。それは二人の“力”の違いでもあるし、性格の違いでもあるんでしょう。自分の野心や欲望が希薄な義経だからこそ、どれほどの力を得てもそれを“自分のために”使うことはないであろう彼だからこそ。

“鬼”は義経を選んだのではないか。

ちょっと仮面ライダーオーズの映司くんを連想したりもします。自身の欲望がないからこそ力の“器”になると見えて、世界を救うという大きすぎる欲望を持っていた映司くん…。

自分の中に制御不能な“鬼”がいるっていうのは思春期のメタファーにもなるけど、この先義経は“大人”になって、その“鬼”を使いこなすことになるんでしょうか。あるいは“鬼”を追い出すのか。

自分で望んだわけでもない“力”。「救い」とは裏腹の「友の死」を背負って生きていく義経の魂は、誰が救ってくれるんでしょう。

誰か、義経を救ってくれる人が必要だよね。

義経こそが、救われないと。


個人的には史実を無視してでもあの「諸悪の根源」政子を打ち負かしてほしいなぁと思います。せめて政子の“力”を封じるぐらいのことはやってもらいたい。

うん、「“者ノ不”がいるから争いが起こる」と思っている義経のやるべきことは、すべての“者ノ不”の“力”を無効化することじゃないかしら。

命を賭けてすべての“力”を封印して……でも結局世界から争いはなくならない、みたいな(つらい)。


義経の魂が地上での役目を終えて旅立つ時には、きっと義仲や教経や“陰”の魂が迎えに来てくれるのでしょう。

「いつかまた逢える」

GACKTさんはずーっとそれしか言ってない、って今回のラストシーンで改めて思いました。

同じ時代をともに戦ったこと
たとえこの声が届かなくても
二度とあの頃に戻れなくても


大切な人はみんな逝ってしまって、それでも(それだからこそ)戦い続けるしかなくて、一緒に過ごしたあの日々に二度と戻ることはできないけど、でもきっと、時の向こうに君が待っているから……。

言いたいことはもう全部『Dears』に詰め込まれていて、あとはそのバリエーションという気がする。最初から全部「MOON」なんだと(笑)。


「あんまり面白くなかった」とか言いつつ長々と書いてしまいました。やっぱりGACKTさんの世界観好きなんだなー。あれこれ妄想したくなる。