『スペードの女王/ベールキン物語』を読んで、もうちょっとプーシキンを読んでみるか、と思い借りてきました。

岩波文庫版、池田健太郎訳のものです。表紙には「純情可憐な少女タチヤーナの切々たる恋情を無残にも踏みにじったオネーギン。彼は後にタチヤーナへの愛に目覚めるが、時すでに遅く、ついに彼の愛が受け入れられることはなかった……」とあらすじが書いてあり、お話としてはホントにそれだけです。そんなに全部表紙に書いちゃったら……と思うぐらい。

表紙には、「バイロン的な主人公オネーギンは、ロシア文学に特徴的な〈余計者〉の原型となった」とも書いてあります。

トルストイの長編とドストエフスキーとゴンチャロフさんしか読んでいませんが、〈余計者〉はまぁ、なんとなくわかります。でも「バイロン」がわからない。バイロンなんて読んだことないよぉ。

オネーギンは、叔父の相続人に選ばれたとかで、お金には不自由していない。「いっぱし学のある若者だったが変わり者」で、女性にもモテたけど本気にはならず、タチヤーナと出会う前には社交界にも飽きて「ふさぎの虫」に取り憑かれている。

要は、退屈したぼんぼん。

それで田舎へ行って、そこでレンスキイという若者と知り合い、親しく付き合うようになる。そのレンスキイの恋人オリガの姉が「純情可憐な少女タチヤーナ」なのだ。

妹に比べるとおとなしく、「幼い頃から他の子どもと飛んだり跳ねたりするのが嫌いで、たいてい日がな一んち黙々と窓辺にすわって過ごしていた」と描写されている。

そんな彼女が、家を訪れたオネーギンに一目惚れ。初めて恋を知った彼女は溢れる想いを手紙にしたためオネーギンに届けるのですが、オネーギンはそれを軽くあしらい、かえって宴席でオリガと踊って彼女を苦しめる。

彼女どころかこの振る舞いはオリガの恋人レンスキイをも苦しめ、「決闘だ!」ということになって、レンスキイはオネーギンに殺されてしまう。

うわぁぁ。

「小人閑居して不善を為す」と言うけど、「退屈したぼんぼん」っていうのは厄介なもんだなぁ。

タチヤーナに向かって、「自分は結婚に向いていなくて、君と結婚しても君を泣かせるばかりだから」と言ったのは、なかなかどうして悪くない断り文句だと思うんだけど(実際オネーギンと結婚してタチヤーナが幸せになれたかどうかははなはだ怪しい)、オリガと踊ってみせたのは本当に馬鹿馬鹿しい理由なんだよね。

彼を見たタチヤーナが泣きそうになっていることにうんざりして、「腹いせにレンスキイを激怒させ、存分に仇を打とうと心に誓った」ってあんた、どーゆー理屈よ。

宴席(というか、タチヤーナの名の日の祝い)にオネーギンを誘ったのは確かにレンスキイで、会いたくもない「純情可憐な少女」と再会させられたのはレンスキイのせいだと言えないことはない。オリガとの結婚式を直後に控えた彼の上機嫌が、退屈なオネーギンには妬ましくもあったのだろう。

しかしその結果決闘沙汰になって、結婚式目前の花婿を殺してしまうんだからなぁ。

アホか。

日本の退屈なお殿様は天下御免の向こう傷を引っさげて悪人成敗に汗を流すというのに。

まぁ、オネーギンは日本のお殿様よりもっとずっと若くて、「若気の至り」という部分もあるんだろうけど。

でもその後、モスクワの社交界で「公爵夫人」となったタチヤーナと再会し、狂おしく彼女に焦がれてしまうところはもう「若気」とは言えないだろう……。

かつての因縁があればこそ、「この美しく立派な人妻は私を焦がれて泣いた少女だったのだぞ!」というねじれた自負があったればこそ、オネーギンは彼女を手に入れたいと思ってしまったのだろうから。

あの恐ろしい時、あなたは立派なふるまいをなさった、私に対してあなたは正しかった、私は心からありがたく思っています。 (P177)

と言って涙ながらにオネーギンの恋情をはねつけるタチヤーナが素敵。

オネーギンの物語ではなくこれはタチヤーナの成長の物語、というふうに言われているのは納得です。

最後、タチヤーナの夫が現れたところで、

読者よ、私はここでわが主人公を、彼にとって意地の悪い瞬間のまま、当分のあいだ……いや永遠に、見捨てることにしよう。 (P179)

とプーシキンは筆を置いてしまう。

あの後オネーギンはどんな目に遭ったんだろう…。タチヤーナの夫はオネーギンと知り合いだったんだけど(タチヤーナと再会した席で、オネーギンはまずその夫に「あの婦人は誰だい?」って訊いて、「あれは私の家内だ」って言われている)、自分の妻に懸想する旧知の男に対して彼はどんな態度を取ったんだろう。

で。

物語の内容そのものよりも私が面白かったのは、この「読者よ!」みたいに呼びかけてしまう文体ですね。

もともとこれは「韻文小説」で、要するに「詩」なのです。

「原文は十四行を一詩節とし、約四百詩節からなりたつ長編の詩」だそうで、だから美辞麗句というか、直接主人公と関係ない話や、語り手自身の思い出話みたいな部分とかあって、「小説の地の文」とはちょっとイメージの違う語りになってます。

『失われた近代を求めて』を読んだ直後だけに、こういう「作者の立ち位置」みたいなものが気になります。

タチヤーナがオネーギンに出した恋文も、ロシア語ではなくフランス語で書かれているんですが、

彼女はロシア語をあまり知らず、わが国の雑誌にも目を通さず、母国語で意中を語るのが難儀なので、フランス語で書いたのだ。 (P61)

繰り返して申し上げるが、今日まで貴婦人の恋はロシア語で打ち明けられたことがない。誇り高いわがロシア語は、郵便用の散文には不慣れなのだ。 (P61)

と説明されていて、この作品が「韻文」であることも含め、当時のロシアでは「ロシア語で散文を書く」というのが――「散文体のロシア語」というものがまだ確立していなかったのかなぁとか。

「詩」での語りには「定型」があって、それこそ作者が思いきり「語り手」として顔を出していても平気だけれど、「詩」でも「戯曲」でもない「散文小説」という形式において、どう「地の文」を書くのか、みたいな…。

当時のロシア語文学の状況について何も知らないのでわかりませんが、ロシア語でも日本語と同じようにいわゆる「言文一致の模索」みたいなのがあったとしたら面白いなぁ、と。

普通に人間が会話する時、「韻文」ではしゃべりませんし、代々お婆さんが孫に話して聞かせてきた、みたいな「口承民話」をいざ書き言葉で、しかも「散文」でまとめようと思うと難しかった、とか……ないかな。

日本の「言文一致体」がツルゲーネフの『あひびき』の翻訳を契機として起こっているだけに、勝手に親近感を覚え、もしやロシア語でも!?と想像をたくましくしてしまいますが、貴婦人がロシア語で手紙を書いてたのは単なる当時の流行でしょうか(^^;)

この岩波文庫版には「付録」として訳者池田健太郎氏が書いた随筆が2本収められています。物語に埋没したい私としてはこういう「おまけ」は余韻を削ぐので邪魔だと思うのですが、『偉大なる書痴・鳴海完造』はなかなか興味深かったです。

鳴海氏は『オネーギン』の初版本を含め、数千点に及ぶロシア文学書・研究書を蒐集していて、彼が所持していたツルゲーネフの手紙は真筆と認められ、ロシアで全集に収められたそうです。

戦前に、しかも決してお金持ちの道楽としてではなく、よくそれだけの書物を……。

論文も翻訳も残さなかったがゆえに、研究者としては「芽が出なかった」などと評された鳴海氏。けれど「つまらぬ論文を書くよりは、これだけの蔵書を蒐集するほうがはるかに後世有益ではないか」

「書痴」って、本好きにとっては最高の褒め言葉ですよね。見習いたい。

ちなみに「詩」の形式で訳されたものもあります。

どんな感じなのかちょっと気になる。