息子ちゃんが橋本治さんの本を片っ端から読みつつあり、ついに『ああでもなくこうでもなく』まで来ました。

実は私、この1冊目を持っていなくて。

持ってるつもりだったんですよ(笑)。でも本棚をひっくり返してみても見つからない。当時、まだそんなにもAmazonさんに頼っていなくて、私はこの本を本屋で見つけることができなかったのですね。それで図書館行ったらあって、借りて読んでそのまま買わなかったらしい。以前に書いた感想を見るとどうもそういうことらしい。

で、息子ちゃんが「ちゃんと1冊目から読みたい」というので、今回も図書館で借りてきたのですよ。

13年前の本なので、書庫に入っている。

こんな素晴らしい本が開架ではなく書庫に眠っているなんて!!!!!

まぁ毎年毎年溢れるほど書籍が発行されているわけですから、処分されず書庫に残されているだけでもありがたいのでしょうけれど。溜まる一方だよね、書庫。どんな大変なことになっているんだろう。一度図書館の書庫に入ってみたい。

この、『ああでもなくこうでもなく』初巻は、『広告批評』1997年1月号から1999年9月に掲載された分が入っていて、各回の巻頭にはそれぞれの原稿が書かれた時期に起こった出来事(雑誌掲載よりも1か月早い、つまり1996年12月から1999年8月まで)が列挙されています。

この「事件簿」を見るだけでも面白い。

だって、1997年に何があったかなんて覚えてないでしょう?

阪神大震災と地下鉄サリン事件が1995年で、1998年は私にとって「出産した年」で、長野オリンピックがあって、なんとなくおぼろに「あの頃か」というのはあるけれども、その時の総理大臣が誰だったかも答えられないし、今度のアルジェリア人質事件で引き合いに出されたペルー公邸の人質事件が96年12月に起きただなんて、言われても思い出せない。

「イチローと葉月里緒奈の交際発覚」とか、サッチー騒動とか山一証券が潰れたとか、「ああ、そんなこともあったっけ」という。

そのものずばり、「人生は過ぎ行かないが、事件は過ぎ行く」っていうタイトルの回もあって、ホント苦笑してしまいます。

でも、ちっとも古くない。

出て来る固有名詞は古びたり忘れられたり、若い人なら聞いたこともないような名前かもしれないけれど、語られているのはとても本質的なことで、恐ろしいぐらい「今の日本」にも当てはまることです。

1997年にはまだ生まれてもいなかった息子ちゃんが「これ、全然今の話だよね。変わってないよね、日本」っていうぐらい。

バブルのツケで銀行(金融機関)がやたらに潰れたり、円高や株安(つまりは不景気)に苦しんだり、沖縄の基地問題に国防の問題、「官僚主導」の根っこ、キレる子ども達……。

橋本さんにとって「昭和の終わり」=「イケイケドンドンの金儲け主義の終わり」で、でもしばらくその昭和の「高度経済成長の夢」が終わったことに日本人は気づかなくて、そんでいよいよ「バブル崩壊」という形で「終わったよ!」ってなるはずなのがやっぱりまだピンと来なくて、リーマンショックを経てもまだまだ全然「それはもう終わった」が飲み込めず、「景気さえ良くなれば!」でアベノミクスが出てくる。

資本主義は借金主義で、投資というのは「金貸し」で、金や物が行き渡っちゃったら「借り手がなくなる」「売れなくなる」は当たり前。永遠に「成長し続ける」なんてことはあり得ないのに、「そんなこと言われても他の方策がわからない」から、「成長しなきゃ!」しか言えない。

昭和が終わり、バブルが弾けて20世紀も終わろうとする中、日本は大きな曲がり角に立ったはずだった。

でも曲がりたくなかった。

だから曲がり角でずーっと足踏みをしている。

なんか、読んでるとそんな気がします。

曲がりたくないからって来た道を戻ったら戦時中になっちゃうのにな……。

というわけで、色褪せないどころか今読んでも非常に面白い、もしかしたら昔よりもさらに面白いかもしれない内容をいくつかご紹介。

つまり、オヤジ達が“女”というものに対して不器用だったからだ。「“女”という扱いの分からない危険なものは、結婚という絶対安全な装置に入れておけば大丈夫だ」という信仰が、いつの間にか出来ていたのである。結婚絶対主義のオヤジ社会は、原発の絶対安全神話を前提とするオヤジ社会とおんなじだと思うけどな。
原発の安全性を疑う女の数と、原発の安全性を疑うなんて考えてみたこともない男の数は、きっと、“原発”を“結婚”に置き換えた時の比率とおんなじだぞ。
 (P57)

これ、「イチローと葉月里緒奈の交際発覚」という事件を枕に語られてるんだけどね。15年前にすでに「原発の絶対安全神話」という言葉は語られていたんだなぁ。

世界からテロをなくすということは、武装を強化するということなんだろうか?違うでしょ?武器を捨てても生きて行ける道はあるってことを、身をもって示すことでしょ?それが憲法第九条を持つ「日本の常識」なんだよなー。感動してしまうよなー。日本人の一人一人が、ガンジーであることを前提としてるんだからなー。冗談じゃなくて、私は本気でこう言ってます。 (P91)

これはペルー公邸人質事件に関して。1997年だから、まだ9.11以前。

9.11とその後の「テロとの戦い」、そして今回のアルジェリア事件を踏まえた今、さらにこの文章は重くなっていると思う。

日本のように、四百年以上の時間をかけて、国民から武器を扱う能力をなくしている国は他にないだろう。そういう国だから、憲法で「武装放棄」が言えるのだ。だから日本人は、それを前提としなければならない。つまり、「外国には危険なところがいくらでもあり、日本人がその危険に巻き込まれる可能性はいくらでもあります。ですから、そうなった時には、日本人としての誇りを信念をもって冷静に対処してください」――というのが、日本人の常識だということである。日本の総理大臣は、それくらいのこと言ってもいいんだぜ。なんで言わないんだろう?「世界にたった一つこういう国がある」ということを、どうして日本政府はアピールしないんだろう?それを言わないから、日本を取り巻く世界の常識は、「世界にたった一つ、なんでも金でかたづけようとして、なんにも考えない愚かな国がある」ということになる。 (P91)

いや、もうホント、タイムリーすぎて……。

バブルが弾けて不良債権に苦しむ金融機関がバタバタと潰れた時、「なんで銀行はつぶれるの?」と聞かれて橋本さんは「銀行って金貸しでしょ?今更金貸しなんていらないのよ」と答える。

最大の問題は、「金融不安をなんとかしろ」ではないのである。最大の問題は、「資本主義経済はもう行くところまで行ってしまって、もう投資する先がない」ということなのである。つまりは、「金融=金貸しは必要なのか?」という段階になって、「金融不安をなんとかしろ」なんてことを言ったってしょうがない、ということなのである。 (P221)

日本がバブルのツケに苦しんでいた当時、アメリカは好景気だったらしいのだけど、橋本さんは「アメリカのそれもバブルだとなぜ考えないんだろう?」とおっしゃってて、その後見事にサブプライムローンでリーマンショックになるんだから、本当に見事な慧眼としか。

サブプライムローンって、金融機関が従来ならお金を貸さないような低所得の人に「大丈夫、土地は値上がりしてるから返せますよ」と嗾して住宅ローンを組ませ、地価下落とともに返済が滞り焦げつきだして大変、しかもその債権が色々組み合わされて金融商品になり、知らずにその「債権者」になっていた人がいっぱいいた、だから影響が大きくてゲロゲロだったというもの。

金融機関が「それまでなら金を貸さないような低所得者層」に金を貸したのは、「地価は上がる」神話のせいだけじゃなくて、「そういう人達にも金を貸したくなるぐらい金が余っていた」「投資先がなくなっていた」ってことなんだよね。

金貸しは金を貸してその利子で食ってるわけだから、金を借りてくれるヤツがいないと話にならない。企業だけでは足りないから普通のサラリーマンにもどんどん借金をさせて……。

「働いてる人間に余分な借金をさせて、その借金の利子で儲ける」というのは、昔の女郎屋の亭主の考えることだったがなァ。 (P193)

「住宅ローン減税」によって「あなたも住宅を買いなさい。借金して買いなさい。少しはおまけしてあげるから」と嗾す政府は女郎屋の亭主とおんなじなんですな、いやはや。

あと、橋本さんによる「とっても風変わりな、体当たり長野冬季オリンピックレポート!」も、東京がオリンピック誘致に躍起になっている今、興味深いです。

橋本さんはオリンピックのための工事がバンバン行われている最中の白馬のペンションに執筆のため缶詰になっていらしたから、その工事がどんなものだったか、「環境五輪」を謳っていたはずなのに、木も花もばんばん切られて山も削られたことを知ってる。そしてオリンピック開催中にもう一度長野に行って、「ボランティアの人間ばっかりで、スキーしに来た人間がほとんどいないオリンピック期間の白馬村は異様だった」っておっしゃってる。

長野オリンピックで作った施設がその後維持費だけでも大変で、お荷物になってるって話を前に聞いたことがあるのだけど、「オリンピックで箱や道路ができれば人が来る!儲かるようになる!」っていう幻想って、その後ちゃんと検証されたのでしょうか。

オリンピックじゃなくても、道路ができても結局素通りされるだけで全然企業も来ないし人も来てくれない、みたいなのはけっこう聞くよね。にもかかわらずやっぱり「うちにも高速道路を!」「うちにも新幹線を!」って言ってるところはまだある。

東京は別に、これ以上人なんか来なくていいはずだから、「オリンピックを誘致できたらもっと儲かる!」っていうのは、企業とか観光客とか住民が増えるということではなしに、単にそれで整備・補修される箱物&道路にお金が落ちる、ってことなんだろうか。そりゃ開催中は世界からお客さんが来て、お金落としていってくれるかもしれないけれども、そんなのたったの2週間程度のことで、しかも誘致活動と運営にかかったお金を差し引いたら一体どれだけの黒字になるのか……。

まぁ東京なら箱物も道路も無駄にはならずオリンピックが終わっても有効活用されるのだ、って話なのかもしれませんけども。

そしてますます東京一極集中になるんですかね。

関西から出たことのない人間にとっては「ふーん」ですけどね。

ソチ五輪まであと1年ということで、新聞に「夏のリゾート・ソチが冬のリゾートも狙う」みたいな野心満々で開発する街の様子がリポートされてて、そんなにうまく人が来るもんなのかとか。

まぁソチだったらヨーロッパからの観光客をいっぱい誘致できるのかなぁ。今でも夏のリゾート地なんだし、夏来た人が冬も来てくれるようになるのかもしれない。

ソチという街がオリンピックのおかげで発展しようとしまいと、「新生ロシア」をアピールする絶好の機会だから、ロシアとしてはオリンピックさえ成功裡に終わればいいんだろう。

昔の東京オリンピックも、北京もソチも、「我々はこのような立派なオリンピックを開けるまでになった!」という国威発揚で、でもそれって「田舎者がここまで来たぞ!」という見栄のようでもあって、それをまた今の東京でやりたいっていうのは何なんだろうとも思う。

昔の東京オリンピックのあの高揚感を忘れられない人達が「夢よもう一度!」と思っているのなら、やっぱり「曲がり角を曲がるのがイヤで来た道を戻ってる」ようにも思える。

ロンドンはなんでオリンピックをやったのかな。

やって良かったのかな。


以前読んだ時にもうるうるした「淀川さんさようなら」の回、今回もやっぱりうるうるした。淀川さんの話はもちろん、中央公論の前会長のエピソードもいいのよねぇ。ううう。

「楽しむ」の一言を結実させるためには、どれほどの教養が必要か――それを語るのが淀川さんだと思う。 (P377)


引き続き2冊目を読み返したくなって困りますわ、ははは。