(1巻の感想はこちら。2巻の感想はこちら

※今さらですが以下ネタバレだらけなので、真っ白な気持ちで読みたい方はご注意ください。

なんか、3巻面白かった。

ここまでで一番面白かった気がする。

2巻の後半で、コゼットに恋をして、うっかりその後をつけるなんて真似をしてジャン・バルジャンに警戒されてしまったマリユス。いつも彼らの姿を目にした公園に、もう彼らは散歩に来なくなり、「ああ、あの子に一目会えるなら!」と傷心のあまり仕事も手に付かなくなってしまいます。

困った若造だねぇ、本当に。

それはそうと、貧乏なマリユスのお隣にはさらに貧乏な、極貧と言っていい家族が住んでいて、なんとこれがテナルディエ一家だったりするのです。

ジャン・バルジャンにコゼットを取られ(というのはテナルディエの勝手な言い分だけど)、破産して宿屋を失い、窮乏の底で仲間達と悪事を働き、また、種々様々な名前と経歴をでっちあげて金を持ってそうな紳士淑女の皆さんのところに「どうかお助けください」と手紙を出しまくっているテナルディエ。

奇特にもその手紙に応じてやってきた慈善家親子がなんとジャン・バルジャン&コゼット!

壁の穴から隣家の様子を覗いていたマリユスはびっくり。もちろんテナルディエもびっくり!!!

ジャン・バルジャン達の方は相手の素性にはまったく気づかず、「今はこれきり持ち金がないから、また後で伺います」などとさらに奇特な約束をして帰ってしまう。

テナルディエにとってはまさに「鴨が葱しょってやってきた」状態。絶好の金づるが向こうから飛び込んできた!

その悪事の企みを漏れ聞いたマリユスは「愛する娘とその父を助けなくちゃ!」と警察関係者のところへタレコミに行くのですが、なんとその相手はジャヴェル!!!

いくらなんでも出来すぎだけど、でも面白い。ドキドキせずにはいられない。

愛するコゼットとその父を救いたいと思いながら、隣の悪漢が他ならぬ「父の命の恩人テナルディエ」だと知ってマリユスは一人壁際で苦悩してるし。

ほんまイライラする子やわ(笑)。いくら命の恩人でも、過去にはいい行いをしたことがあったとしても、目の前で一人の男が大勢の悪人に取り囲まれ、その命や財産を危うくしているというのに……。

ここでぐいぐいと引っ張られるだけでなく、2巻でも名前が出て来て「この子は何だろう?」と思っていたガヴローシュや、テナルディエの娘エポニーヌがきらきらとその存在感を発揮し始める。

正直、マリユスとコゼットの逢い引きなんかより、マリユスに対して報われない恋心を抱くエポニーヌの方が、ドラマとしては魅力的。

マリユスのために、体を張って悪漢どもを追い払ったりするんだもの。

マリユスが愛しているのはコゼットだと知っていながら。

テナルディエの没落とともに没落し、「悪漢どもの使い走り」的な役目をするようになっていたエポニーヌ。マリユスをして、「自分はまだ本物の悲惨を知らなかった。今、本物の悲惨を目にしたのだ」と思わせたその境遇。

実際、男の悲惨のみを見たとて、まだ本当のものを見たとは言えない、女の悲惨を見なければいけない。女の悲惨のみを見たとてまだ本当のものを見たとは言えない、子どものそれを見なければいけない。 (P35)

エポニーヌとコゼットは、確かそんなに年は変わらない。エポニーヌは悲惨な“女”で、しかもまだ“子ども”なのです。彼女がとうていマリユスの恋の相手にならないひどい有り様であるのは彼女のせいじゃない。彼女が貧乏で、悪事の片棒を担いでいるのは父テナルディエのせいで、そして彼女は―子どもは―親を選べない。

ガヴローシュもまた、テナルディエの子どもでした。

コゼットをいたぶる「怖ろしいおかみさん」だったテナルディエの妻は、女の子は可愛がったけれど男の子は可愛がらなかった。まだ10歳を少し過ぎたぐらいだと思われるガヴローシュは、ろくに親にかまわれず、従って家にもそんなに寄りつかず、路上の不良少年として暮らしていた。

2巻の方に、「親がいながら“孤児”になっているものがもっとも悲惨」みたいなことが書いてあったんだけど、親がいながら路上で暮らすガヴローシュ、親が親だけに、むしろ“孤児”になっていて正解なのかもしれません。

だってなんか、いい子なんだもん。

もちろん悪漢の使い走りをしたり、“いたずら”の範囲を超えたこともしているんだけど、無一文だと嘆いている老人のもとへ財布を投げ入れてやったり、路頭に迷って泣いている幼子を助けてやったり、根っこのところは決して荒れてないのですよね。

しかもこの「助けた幼子2人」が実は弟達だったりして……。

テナルディエのおかみさんは男の子が嫌い&お金がないので、ガヴローシュの下に生まれた男の子2人はよそへやられていたのです。で、お互いに顔も覚えてない。

7歳と5歳ぐらいの二人の男の子が泣きながら歩いているのを見かねて、ガヴローシュは一夜の宿を提供してやる。彼が住まいにしている、「ナポレオンの象」の中で。

なんか、ナポレオンがなんかの記念で広場に立てた「象の像」なんだけど、そこで子ども達の面倒を見てやるガヴローシュのくだりはなんか、じーんと来ます。

「あんなものが何の役に立つんだ?」とナポレオン失脚後、パリの人間達からも忘れられていた象。それが今、不幸な子ども達が雨風をしのぐ“神の家”になっているのだ、というユーゴーの筆が、胸に迫るのですよね。

悪漢の使い走りに行ったら実はテナルディエを助け出す手伝いで、「やあ、親父だな、なに構うこたあねぇ」って淡々と“仕事”をこなしちゃうところとか、ガヴローシュ君かっこいい。

親は子を可愛いと思うもの、子は親を慕うもの、というのは幻想にすぎない、と思ったりしますね、なんか。

あとマリユスの知人のマブーフ氏という老人が日々の糧のために大事な大事な蔵書を1冊ずつ売りに行き、ついにはすべての本を売ってしまうというエピソードも泣けます。うう、本だけは、本だけは勘弁してくだせぇ、お代官様。

マリユスの祖父がマリユスと気持ちのすれ違いを演じる場面も「超あるある」な感じで読んでてもどかしいし、コゼットが娘らしい美しさを発揮していくのが「父にとっては不安の種、母親ならまた違うのだろうが」っていうのもなるほど。

めんどくさかった「社会背景」の部分も、いよいよ1832年6月暴動へと結実し、全体に面白く読めました。

そうそう、6月暴動の前には1830年の「7月革命」があるのだけど、ちょっと本文だけではよくわからなかったのでググったら、“シャルルは国内の不満を逸らす目的で、1830年7月にアルジェリア侵略を始めた(これが1960年代まで続くフランス・アルジェリア植民地の端緒となる)。”(Wikipediaフランス7月革命)って書いてあって、アルジェリア人質事件の遠因(?)がこんなところに……。

訳文ではシャルル10世はシャール10世、アルジェリアはアルゼリーとなっています。ググってなければアルゼリーがアルジェリアだって気がつかなかったかも(汗)。

でもそういうちょっと古めかしい訳語も味わい深い。

次はいよいよ最終巻。どんな結末が待っているのか楽しみです。

(※最終4巻の感想はこちら