(1巻の感想はこちら

はい、2巻です。

1巻で、自分と間違われて裁判にかけられていた男を救うために自ら名乗り出たジャン・バルジャン。彼は再び獄中の人となってしまいます。もともとは死刑判決が出たのを、国王が特別に罪を減じて無期徒刑にしてくれたとかなんとか……。

えーっと、ジャン・バルジャンが犯した「死刑に値する罪」って、なんでしたっけ。

今とは量刑が違いすぎるというか、いや、最終的には満期で徒刑場を出たとはいえ脱獄を繰り返していた「極悪犯」が出所後に「銀貨をネコババ」していたんだから、「重大再犯」「更正の余地なし」と思われて仕方ないのか??? なんかよくわからなーい。

ともあれ。

そうして二度と再びシャバに戻ることはないかと思われたジャン・バルジャンなのですが、そのままではお話が終わってしまいます。偶然のきっかけをうまく利用して海に落ち、「死んだ」と思われることで自由を得るのです。

外界へ出た彼が向かったのはもちろんファンティーヌの忘れ形見、コゼットのところでした。

コゼットは8歳になっていて、宿屋の主人テナルディエとその妻によって虐待されています。ファンティーヌから何かにつけ金をせびり取っておきながら(そのせいでファンティーヌの命を奪っておきながら)、テナルディエ夫妻は彼女にろくな着物も食べ物も与えず、「下女」としてこき使っていました。

テナルディエとその妻は本当に悪党で、「なんだってよりによってこんな連中に子どもを預けちゃったんだよぉ」とファンティーヌの人を見る目のなさに憤慨してしまいます。

「彼女はただ哺乳動物であるから母親になったまでである(P44)」とまで書かれているんですよねぇ、テナルディエの妻。「ただ哺乳動物であるから」って、すごい表現。

でも、必ずしも彼ら夫婦だけがひどいわけではない。

宿屋なんだから客はいるし、客達も、そしてその宿屋がある界隈の住人達も、みんなコゼットがどんな目に遭っているか、その悲惨な有り様を知っている。知っていて、住人達は彼女に「ひばり」という渾名をつけたりもしている。

誰も助けない。

第三部ではパリの浮浪少年達の話も出てくるし、何もコゼットだけが特別ひどい目に遭っていたわけではなく、親を亡くしたり親の保護を受けられない子ども達が悲惨な境遇に陥るのはごく当たり前の、いちいち心に留めるほどのことではなかったのかもしれません。

可哀想だと思ったところで、じゃあ自分が引き取って育てられるのかと言えば……ですし、ファンティーヌが生きている間はコゼットは「金づる」でもあって、テナルディエ夫妻は容易に彼女を手放そうとはしなかったわけで。

ファンティーヌが生きている間になんとか、と思って市長時代のジャン・バルジャンは幾度も手紙を送ったりしてたんですからねぇ。

なのでジャン・バルジャン本人がコゼットを迎えに行っても、テナルディエはそうそう簡単に首を縦に振りません。「私はあの子が可愛いので、どこの誰ともわからぬ人に渡せません」とか言っちゃう。

可 愛 い だ と ぉ ! ?

どの口がそれを言うんだか。

まぁ要するに「金目当て」なので1500フランで一旦は手を打つんだけど、「1500フラン払えるんならもっともっとせびれただろう、もったいない!」と思ってテナルディエはジャン・バルジャンとコゼットを追いかけていく。

何と言っていいやら。

ジャン・バルジャンは追ってきたテナルディエをあしらって、無事コゼットとともにパリへと去っていくんだけど、「子どもを盗まれた!」と大騒ぎしたテナルディエのおかげで「死んだ」はずのジャン・バルジャンが生きているかもしれないと疑念を抱く者が――!

そう、1巻で「市長は実はジャン・バルジャンではないか?」と睨み、なんでか徒刑囚ジャン・バルジャンのことをずっとしつこく追いかけ回していた警官ジャヴェル。

パリの片隅でやっと平穏な暮らしを送り始めたジャン・バルジャンとコゼットにジャヴェルの魔の手が迫る!!!!!

間一髪で二人はどうにか追っ手を振り切ることができるのですが、もうホントにどきどきしますね。ってゆーかジャヴェルのこの執念は何なの!? もしまたジャン・バルジャンが捕まったとしたら、また「脱走」の罪になってしまうの? おまけに子どもを誘拐した罪!?

なんで放っておいてやらないんだ……。他にもっと捕まえるべき悪党はいっぱいいるだろうに。

ジャン・バルジャンが窮余の一策で飛び込んだ先は修道院で、そこにはかつて彼が命を救ってやった老人がいて、今度はその老人が彼とコゼットを救ってくれる。

世俗を離れた修道院にいたがゆえに「市長の転落」を知らない老人は、ジャン・バルジャンを「命の恩人」として、また立派な「市長」として尊敬し、なんとか力になろうとしてくれるんだよね。

なんかホッとする、こういう人がいてくれることに。

「私にあれだけのことをしてくれた人が、もし盗人だったとしても助けるべきだろうか?やはり同じことだ。もし人殺しだったとしても助けるべきものだろうか?やはり同じことだ」 (P275)

ジャン・バルジャンの過去、そしてなぜ急に彼の目の前にジャン・バルジャンが現れ、なぜ追われている様子なのかを知ったとしても、老人はやはり「命の恩人」を助けてくれたのだろうというこの記述。

ああ、ホッとする。

またこの老人が実にしっかりと頭を働かせて窮地を脱してくれるのだ。いやー、なんとも面白い。

ただ。

面白い“ドラマ”部分の間にはさまる退屈な部分が、けっこう長い。1巻の最初が長々と司教様の話だったように、修道院の様子を述べた部分もかなり長くて、「そんなことどーでもいいから早くジャン・バルジャンがどうなるのか教えて!!!!!」とイライラしてしまう。

後半、第三部「マリユス」も最初は延々とパリの浮浪少年達に対する考察で、肝心のマリユス君はいつ出てくるんだという……。なぜ「悲惨な人々」がいるのか、彼らを取り巻く環境、彼らを生み出す世の中を描くという意味で、それらの「退屈な部分」も十分本筋と関係があるんだろうけど……しかし退屈。読み飛ばしたくなる。

マリユス君は母を亡くし、王党派のお爺さんに育てられている。父親は生きているんだけど、ナポレオンのもとで戦った兵士だったので、王党派のお爺さんに嫌われて、遠ざけられているのです。

ナポレオン失脚で王政復古してる時代のお話なんですよね。

マリユスはお爺さんに「王党派」として仕込まれて、ナポレオン軍の兵士だった父を良く思っていないのだけど、長いこと会っていなかった父の死に目に会えず(あと一歩で間に合わなかった)、その後「自分のことなど愛していない」と思っていた父が実はミサに来る息子をいつも影から
眺めて涙を流していたと知り、祖父派から父派へと急転回する。

父派になるということは「ナポレオン派」になるということでもあって、改めて父の戦功やナポレオンの足跡、ひいてはフランス革命等の歴史を学んだマリユスは熱烈な「ナポレオン崇拝者」になってしまう。

当然王党派の祖父とは反目することになり、「勘当じゃ!」みたいになって、マリユス君は一人パリの街で貧乏暮らしをすることになるのでした。

「若気の至り爆発!」的なマリユス君の熱情性格にはちょっと呆れるところもあるのですが、政治信条により分断される家族というのは興味深いです。軍人として成功していたマリユス君の父親がナポレオン失脚後はひっそりと寂しく暮らさなければならなかったところも。

現代日本人にはピンと来ないように思えて、でもたとえば原発誘致をめぐって町が二分され、家族も分断され……みたいなことはあるわけで。

安倍首相がお正月に『レ・ミゼラブル』を観た、というので毎日新聞にこんな記事が載っていました。

「1814年、ルイ18世が即位したが、時の首相タレーランの言う「なにひとつ(経験に)学ばず、なにひとつ(特権を)忘れぬ」王族の時代錯誤が次の暴動を呼ぶ。「民主党革命」からようやく政権を奪還した自民党にとって、これほど教訓に満ちた史劇はあるまい。」

(記事全文はこちら

民主党がナポレオンで自民党が王族!?

ちなみに「風知草:首相インタビュー余話」では「安倍首相は『レ・ミゼラブル』では泣かなかった」というこぼれ話が。

まぁ私も原作2巻までは泣いてません。

さてところでマリユス君は公園で見かける娘に恋してしまうんだけど、どうもその娘はコゼットぽい。常に一緒にいる老人はジャン・バルジャンぽい。

マリユスとコゼットが結婚する、というのは実は1巻目の訳者による序文に書いてあるんだけど(あらすじが序文に書いてあるってどうなんだろう…)、この後きっとあるであろう紆余曲折が楽しみです。

戦場でマリユスの父の命を助ったテナルディエにマリユスが非常な感心と好意を持っているのも気がかり。

もちろんテナルディエは戦死者から金目のものを奪おうとしてたまたまマリユスの父を助けることになってしまっただけで、マリユスが夢想するような「命の恩人」ではないのだけど、そしてまだマリユスはテナルディエに出会っていないのだけど。

父の恩人が恋する人を酷い目に遭わせていた男だと知ったマリユス君はどうするのか!?乞御期待!

って、それを「知る」のかどうか、2巻まででは全然わからないのですけどね。

頑張って続きを読みたいと思います。

(※3巻の感想はこちら、最終4巻の感想はこちら