続きです。(前段「哀れなり重盛」はこちら

可哀想な重盛が父に対する「報復」として権大納言を辞任し、清盛の娘徳子の入内は延期。重盛はその後1年にわたって蟄居し、徳子入内の少し前にやっと朝政に復帰します。

徳子は後白河院の猶子として従三位の位を持って入内。すぐに「中宮」となります。

徳子は18歳、後白河院と滋子の間の皇子である高倉帝はまだ12歳。徳子の「ご懐妊」はまだ先のことになりそうでした。

しばらくは平穏に時が過ぎ、四年後、後白河院は五十の賀を祝います。そしてその祝いの4カ月後、建春門院滋子が35歳の若さで逝去。

母滋子の死を、息子である高倉帝は深く嘆きます。まだ16歳ですからねー。そりゃお母さん死んじゃったら辛いよね。

建春門院が亡くなる前に高松院(美福門院の娘で二条帝の后)も崩御していて、建春門院の死の9日後には六条院が13歳で崩御します。二条帝の遺児であり、高倉帝即位のためにさっさと御位を逐われた六条帝。あまりにも短く、甲斐のない人生です……。

で、二条帝の后であった高松院は出家の後、ひそかに僧都と通じて男児を産んでいました。なんとその相手の僧都は信西の遺児。信西の死を看取った西光は今や後白河院の近臣として勢威をふるい、加賀の目代としてあった西光の息子達は白山の寺僧と争って騒ぎを起こすのです。

御世のどこかに、非業の死を遂げた信西が、ひっそりと佇んでいるようだった。 (P143)

生母建春門院の死を深く嘆き、続けざまの訃報に心を暗くする高倉帝。そんな若き帝の前に現れた女房小督(二十歳)。「宮廷一の美女」とも噂される美貌の彼女を帝は見初め、手を付けるのですが。

小督は信西の四男成憲の娘なのですね。なんという信西の影!

かつては清盛の婿ともなった男の娘が清盛の娘(徳子)の寵を奪う!皮肉だなぁ……。

もちろん清盛は「きーっ!」となります。入内後4年、中宮徳子に懐妊のないうち、帝は信西の孫ごときにうつつを抜かしている。「そばに仕える女房達は何やっとんじゃー!」と怒りますが、重盛に「こっちは中宮なんだからご寵愛の女一人出現しただけでうろたえるんじゃありませんよ」とたしなめられて「ぐぬぬ」。

なんとかこらえた清盛の耳にしかし、成憲の昇進の人事が聞こえてきてまたしても「きーっ!」。福原から重盛に向かって「どーゆーこっちゃー!」と怒りの使者が飛んできます。

重盛もホント苦労しますよねぇ。隠居したはずなのにすぐ口を出してくる父、そしてその父に愛される出来の悪い弟。

成憲の昇進の発端となったのは誰あろう清盛の愛する息子宗盛。建春門院の猶子となっていた宗盛は、建春門院の国喪の期間がたったの12日に短縮されたのが不満だったのですね。高倉帝の嘆きがあまりに深いことを慮っての短縮だったのですが、「それって女院の子である俺が軽んじられてるってことにもなるんじゃね?」と不満を口にする。

三十の歳を迎えて、宗盛は、既に十分すぎるほど、栄華に慣れていた。そして、優柔不断でもあった。 (P155)

「だったらおまえが喪に服せよ」と重盛に言われて、「えー、なんで俺だけ?でもまぁ1カ月くらいだったらいいか」と宗盛は官を辞し、その官を埋める形で小督の父成憲の昇進人事があったと。

もちろんそれは重盛の周到な策略でもありました。

重盛は、煩わしい父からの自立を考えていた。一門のありようを、自身の主導の下に再編しようと考えていた。宗盛が父にとっては「特別の息子」であっても、重盛にとっては、「嫡宗に連なる異腹の弟」でしかない。 (P157)

ですよねー。頑張れ重盛!

が、しかし。重盛が頭を働かせて色々手を打っても、王朝の複雑怪奇はそう簡単に重盛の前に道を開きません。

「その細心が仇となれ」と、兼実は思った。幾つもの家柄が入り組んで序列の争いを最大の目的とする王朝人事の世界は、魔性の森にも等しい。兼実は、「そこへ来い」と重盛を誘った。「物知らずの相国入道ならばいざ知らず、謹厳な重盛はそこで野垂れ死ね」――御世の有職と崇められる時の右大臣は、そのように平氏の嫡男をもてなしたのである。 (P174)

ひぃぃぃ、王朝貴族こえー!!!((((;゜Д゜)))

兼実は忠通の三男で、この時まだ28歳なんですよ。28歳で、年上の、決して頭は悪くない重盛をこのあしらい。

そして重盛の前に立ちはだかるもう一人。

院のお心はただ一つ――すべてに優っての院のご優越ばかりである。重盛は、それを忘れかけていた。 (P182)

「王朝貴族の一員となりたい」と願い、王朝の秩序維持を「一族の栄華」より上に置く重盛。ああ、それなのにそれなのに。かえって王朝貴族と後白河院という魑魅魍魎に喰われてしまうのね。可哀想に。ううう。

で。

重盛が憧れ、取り憑かれた「貴族の中の貴族」、藤原成親。重盛に何度も助命嘆願をしてもらっておきながら、重盛ならびに平家一門が自分より出世していくのが気に入らない。自分の望む官が平家に取られるのが気に入らない。

何の実質もない人間が院の御寵だけで幅利かせてるのに何を八つ当たりしているんだろうと思いますが。

「我が身を振り返る要を持たない」からこそ彼は「貴族の中の貴族」だったりもして。

院のご寵ばかりを頼りとする出自の芳しからぬ者、時世の勢からはずれた者達ばかりを集め、成親は、「自身の優越」を説く。それこそが、時流をはずれた者の虚しい雄叫びであることも知らず。「平氏打倒」を繰り返し叫ぶ者達の酔いの声ばかりは高く、しかしそこには、どのような具体的な計画もなかった。 (P232)

「平氏打倒」の声ばかり高いそこは、俊寛所有の鹿ヶ谷の山荘。

そう、その具体性を欠く酒の席の愚痴でしかないようなものが「鹿ヶ谷の謀議」と呼ばれるものの正体でした。何の具体性もないただの妄想であったものが、「一味と思われることの愚」を慮った一人の男の密告によって「具体」を備えることになる。

馬鹿な成親はともかく、その場に居合わせた人間は誰も、現実に自分達が平家を打ち倒せるなどと思ってはいなかったでしょう。一~二度その場に居合わせて「見事に討ち果たしてみせるか?」と面白がった後白河院も、何かを命令したわけではない。

もし密告がなかったら「ただの酒席の愚痴」で終わってたんじゃないでしょうかねぇ。

まぁ、「鹿ヶ谷」に集った面々以外にも平家の成り上がりを気に入らない人間はいっぱいいて、そっちが多数派だったんでしょうから、「鹿ヶ谷」がなくても傾き始めた平家の命運は変わらなかったのかもしれません。

「鹿ヶ谷の妄想」が「謀議」というものになってしまったきっかけは、例の、「西光の息子達が起こした白山とのもめ事」でした。神威を傷つけられた白山の寺僧達は、「本山」である比叡山へ訴え出ます。最初比叡山は「末寺の訴訟には関わらぬ」と言って白山側の申し出を断っていたのですが、白山側も引かないし、西光の意を汲んだ後白河院が「よけいなことするな」と口を出してきたことに反発する僧も増えて。

大河ドラマでも「天皇(上皇)でさえままにならぬもの」の一つとして「山門の法師」と挙げられるくらい、「朝廷の権威」を怖れないのが比叡山の僧達。

それが、西光ごとき者を守るために誇りを失っていいのか? 末寺を汚されるはすなわち山門を汚されたことと同じではないのか?

で、彼等は都の方に押し寄せてきて、その収拾に重盛があたり、なんとか追い返すのだけど、その時神輿に矢が当たってしまって、「神への冒涜」ということになってしまう。

えーっ、なんでー。

相手は最初っから神や仏に仕える人間達で、神輿を押し立てていわゆる「デモ行進」に来てるんだから、それを「追い返そう」という時点で「神や仏をなんと心得る!?」だよね。だからこそ彼等は「朝廷の権威」に屈さないわけで。

そんなめんどくさい相手と対峙するのに矢の一本や二本さー。そもそもめんどくさいから重盛に押しつけたんでしょー。それで追い返せなかったら追い返せなかったで重盛の責任を問うんでしょー。

ホントにどこまでも可哀想な重盛。ううう。

重盛が一旦押し返したものの比叡山方の方が優勢。内裏に押し寄せられることを怖れて、お主上は院の御所へと遷ります。

「院のご庇護の下に入る」――それが重盛には、敗北同然のことと思われた。 (P260)

ああ、重盛……。

結果的にその後都を襲った大火事で内裏も焼けてしまうので、その前にお主上が院の御所へ遷っていたのは幸いではあったのですが。

しかしさっきから「神」と「仏」が見事にごちゃごちゃですね。西光の息子達が揉めた相手は白山妙理権現に仕える寺僧達らしいのですが、権現様って「神様」ですよね? 神様に仕える寺僧、比叡山の「末寺」からはるばるデモにやってきた神輿。

ううん?????

Wikipedeiaによると「権現(ごんげん)は日本の神の神号の一つ。日本の神々は仏教の仏が仮の姿で現れたものであるという本地垂迹思想に基づいた神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを文字で示している。」だそうで。

「権現様」というのは神だけど仏なのか……。

彼等(比叡山の僧達)は、神に守られ仏の教えに従う者としての立場を明らかにすることによって、俗界に神威の畏れを示す途を選んだのだ。 (P261)

「神に守られ仏の教えに従う者」 なんという本地垂迹!さすが日本!神を崇めることと仏の教えに従うことは何ら矛盾しない!!!

考えてみればわざわざ明治政府が「神仏分離令」を出して「廃仏毀釈」するほどそれ以前は神と仏が渾然一体だったわけで、いわゆる「国家神道」というのは明治政府が新しく作った宗教だったとも言えるわけで。

それ以前の「八百万の神々」への信仰と仏教への帰依というのは日本人には「いっしょくたであたりまえ」のものだったんですよね。

むしろ「なんでお寺に神輿が!?」と驚いてる私が明治の考えに捕らわれすぎているだけで。

神と仏がいっしょくたに存在する清荒神に子どもの頃からお詣りしていながらなんと無知なわたくし……。ってゆーか、自分が“何”にお詣りしてるのか自覚がないところが我ながら実に日本人……。

えーっとそれで、ままならぬ「山門の法師」に苛立つ後白河院は比叡山の座主明雲にえん罪を着せて自らの憂さを晴らそうとします。(明雲は座主ですが、別に僧達を焚きつけたりリーダーとしてデモ行進したりはしていません。むしろ「大人しくしてろ」という院宣に従おうとしていたのです)

そんなことしたら「火に油」、これ以上比叡山を刺激したくない公卿達はなんとか後白河院を宥めて明雲の罪を減じたいと思うものの、院を説得できるような人間がいるはずもなく。

話を伝え聞いた清盛は「我こそは!」と張り切って院のもとへ馳せ参じるのですがしかし、院は清盛に会おうともしません。

ご対面に及ばれれば、院はたちどころにお心を解き給われ、無実の罪に身の置き所をなくした「前の座主」をお赦しになり給われるであろう。御世の愁眉は開かれ、人の賞賛は清盛の上に集まり、平相国入道の人望は、高く揺るぎのないものとなるだろう――そのように信じていた。まさか、それが院のお望みにならぬことであり、法住寺殿で待つものが、清盛の望みの一切を覆すようなものであるなどとは、夢にも思わなかった。 (P277)

後白河院に嫌われている、自身の権勢こそが院の気に入らないということが清盛にはわからないんですねぇ。純朴だなぁ、清盛。

明雲の罪を免じるどころか、西光の指嗾に乗って「山門攻め」を口にする後白河院。清盛には会わず、「都で第一の武者」である平家の力を借りずして、誰がどうやって山門を攻めるのか。

それは鹿ヶ谷に集う面々の役目。成親や俊寛、そして西光はもちろん「言うだけ番長」で、かつて「平氏を倒す時の総大将はおまえ」と勝手に指名した行綱に「山門攻め」も担わせようとする。

そして「山門攻め」の勢いを駆ってそのまま「平氏打倒」へなだれ込もうと。

そんなのは完全に妄想で、成親の頭の中に具体的な策略なんてものは何もないのだけれど、「総大将」に指名された行綱にとっては妄想では済まない。この、何も考えていない人たちが何も考えないまま俺に命令を下したらどうなるのか。俺は無駄死にするだけではないか。

ということで、命令される前に行綱は清盛のもとへ密告に走ったのです。

現実性を欠く計画が、既に現実のものとして進んでいる――その危機を報せるため、行綱は、現実性のない計画に現実性を添えた。それが、恣意的なものであることを責めることは出来ない。裁かれるものは、計画の背後にある、愚かなる「妄想」なのだから。 (P296)

ほんまにアホですね、成親は。もういい年のはずなのに(この時40歳くらいです)「ボクが一番じゃなきゃヤダ!」って駄々こねて「あいつらみんなやっつけちゃえばいいんだよ!」って“ごっこ遊び”しているような。

行綱の密告を受けた清盛は成親を呼び出し、邸の一室へ閉じ込めます。「平氏打倒」を妄想しながら呼び出されてのこのこ行っちゃう成親。自分が平氏を憎んで「打倒」を叫ぶことと、「それが露見すれば自分が平氏に倒される」ということがまったく繋がっていないんですよね、彼の頭の中では。

何をしようと自分の優越は覆らないと思ってる。

知らぬことは知らない――その以前に、目の前に起こることが理解出来ない。であれば、事態への関与はなくなる。これが、成親の身につけた「罪を回避する術」である。 (P312)

平治の乱でも信頼の隣にいた人ですからねぇ。「大罪」を「大罪」とも思わず、重盛に命を助けられるのを当然として。

今回も、事態を聞きつけた重盛が助けに現れます。

もうほとんど成親にとって重盛は「ピンチになると現れる」特撮ヒーローのようです。

自分の欲しかった左大将の官を重盛に取られたのを不服として「鹿ヶ谷の妄想」を膨らませたくせに、現れた重盛の着物の裾にすがって命乞いをする成親。

おまえなー。ええ加減にせぇよ。

さすがの重盛も「もうこんな男どーでもいい」と思ってはいるのだけど、成親に対する私的な感情と、公的な扱いは別。すでに貴族達の中でも孤立していた成親を排除するのはいいとしても、殺すことはならない。殺してしまえば、かならず貴族達は「平家の横暴」を譏る。

手を汚してはならない。人の騒ぎ立てる隙を作ってはならない。それが、王朝の作法なのだ。 (P323)

で、重盛に「成親を殺してはならぬ!」ときつく言い含められた清盛は西光の首ばかりで我慢するのですが、やっぱりそれでは気が済まない。後白河院にしても成親にしても、他の貴族達にしてもみんな勝手をするのになんで俺ばっかりこんな「謀叛」を起こされても我慢してなきゃいけないんだよーーーーー!俺がどれだけ後白河院のために働いてきたと思ってるんだよぉ、ばかやろーーーーーー!

というわけで、清盛は「恩知らず」の後白河院に会って、院を自分の手の届くところへ遷そうと考えるのですね。成親や西光のような者が院を再びたぶらかすのを防ごうと。

慌てた盛国が重盛を呼びに行って、清盛はまた重盛に怒られちゃう。「何考えてんだ、この馬鹿親父!」と。(そんな直接的な言い方重盛はしませんけど)

まぁ、清盛の気持ちもわかります。後白河院の気ままに振り回され、「太政大臣」の位に上っても少しの落ち度ですぐ「横暴!」を言われる、いつまで経っても「成り上がり」としか見られない我が身。何より「院が自分を敵と見ている」ことが清盛の心を深く傷つけたのでしょう。

しかしそこで怒りに任せて“王朝の作法”を破ってしまえば、ますます「成り上がり」からの脱却は遠のく。

「現世の考として、重盛、ご短慮をお諫め申し上げ、無間奈落の底へまで落ち給える父上の、後世に災いのなからんことをお祈り申し上げます!さ、この首、お打ち遊ばしませい!」 (P336)

院のもとへ行きたければまず我が首を打ってからにせよ!と父に迫る重盛。ここの啖呵、絶品です。

ホントに苦労の多い子だよね、重盛…。普段はそのくどくどしい説教にみんなうんざりしてるけど、清盛の乱心とも言える思いつきに困り果てていた弟達も重盛の言に「よくぞ言ってくれた」と泣いていたりして。

父に嫌われることを厭わず諫言できるのは重盛だけなんだから、みんなもっと普段から重盛のこと盛り立ててやれよー!

ただ。

重盛の言うことはいちいちもっともすぎて、「正論」には反駁の余地がなくて、清盛以下一族の「わかってるけど悔しいよ!ムカツクよ!!」という“感情”をうまく汲み取れなかったのかもしれない。人間理屈だけで動くわけじゃない――むしろ感情だけで動いてしまう方が多い生き物だから……。

重盛の助命によって斬首を免れ流刑となった成親は流された地で結局殺されます。ホントにこいつの人生もね…。もっと早いうちに失脚しておけば良かったのに。重盛に取り憑いちゃってさ。ぷんぷん!

重盛が早世してしまうのも無理はありません……。

(13巻の感想記事はこちら