「続」というよりこっちが「正」かもしれません。

こないだの記事はディケイドとフォーゼの話しかしてないようなもので。

この本のメインはむしろ初期の平成シリーズなので、『アギト』や『555』について語らなければならないのです。

で、観てない私は「そーかー、そんなに面白いのかー、観てみなきゃ」と思うだけで「語る」ことができにくいのですが。

必ずしも個別の作品じゃない「全体の話」として面白い論評も多々。

まず冒頭に掲載されているプロデューサーの白倉さんと哲学者の國分さんの対談、「存在論的なヒーローのために――平成仮面ライダーの正義と倫理」が面白い!

これだけでも買った甲斐があるというもの。

「戦隊に比べるとライダーの方がフォーマットが定まっていない」とか、「9.11を受けて“子ども達に本当の正義を教える番組にすればいいんですね!”で作ったのが『龍騎』」とか。

後者なんて「えええええっ!」ですよね。

いや、「“本当の正義”とは何か?」「“唯一正しい正義”なんてものがあるのか」ということを教えることこそが「本当の正義を教える」である、という逆説はもちろんよーくわかっているけれども、リアルタイムでなく後から『龍騎』を観た私にとっては「9.11を受けてこーなったのか!」っていうのは予想を超えていて。

「殺してはいけない」とか「争ってはいけない」という“正義”ではなく、「戦わなければ生き残れない」を持ってくるって、ほんと初期の仮面ライダーすごい。

『龍騎』はそれぞれの“正義”“信念”を掲げたライダー達のバトルロワイヤルで、ライダーが他のライダーを倒すことはすなわち「一人の人間を殺す」ことだった。

『555』でも敵であるオルフェノクは「人間の変種」で、向こうは向こうで生き残るために戦っている。地球の重力に引かれた人々とニュータイプ含むスペースノイドの戦いみたいなもんですよね。

どっちが“正義”なのか。

白倉さんは平成の世に仮面ライダーを復活させるに当たって、「仮面ライダー1号」の魅力=骨格となるものは何か、と考えたそうです。

出て来たのが「同族争い」「親殺し」、そして「自己否定」

1号って毎回「仮面ライダー本郷猛は改造人間である」というナレーションがついてたと思うんですけど、敵であるショッカーに改造された存在である主人公は、要するに「敵の怪人」と「同族」なんですよね。

これは、どんどん「狭い世界のヒーロー」になっている最近のライダーでも踏襲されていて、『W』でも『オーズ』でも『フォーゼ』でも、敵の力とライダーの力の源は同じです(それぞれガイアメモリ、メダル、スイッチですね)。

ショッカーの手によって生み出されたものがショッカーを滅ぼそうとする。そこが「親殺し」。

そしてショッカーを滅ぼし、怪人を全部滅ぼすのが使命なら、敵に改造された「怪人」である自分自身も滅ぼさなければいけないのではないかという「自己否定」。

「自分は人間ではない」という葛藤ですよね。

ライダーに限らず石ノ森作品ってそういうお話多いですけど。

もはや人間ではないものが「人間の側」に立って戦う。脳の改造を免れて「人間の心」を残しているからそれは当たり前のように見えて、でも周りの人間達は彼を「人間」として受け入れるのか。

『キャシャーン』とか「おまえもロボットじゃないか!」って言われて石持て逐われたりしてましたよね。

人間のために戦っているのに、「おまえも敵と同じだろ」と言われる孤独なヒーロー。

仮面ライダーは少年ライダー隊がいたりして、「ヒーローとして慕われて」いたわけで、実のところそんなに葛藤場面なんかないんですが、それでも「戦わなければならない」という使命感の中に、「自分は改造人間だから」という悲愴感が感じ取れるんじゃないかと…。

私、『V3』の時に幼稚園児なんですよね。実際にその時の「感想」なのか、その後のシリーズや再放送を観た時の感想なのか、石ノ森作品もろもろの感想ごちゃごちゃなのか、「ライダーには葛藤がつきもの」って思い込んじゃってて。

初期の平成ライダーに比べれば昭和ライダーはずっと単純な勧善懲悪だったんでしょうけど、それでもライダーマンのエピソードや、必殺技を使うと自分も死んじゃうタックルのエピソードには「うわぁ」と思った印象があって。

先の3つのテーマゆえに「光の国という理想的なところからやってきた宇宙人とは明確に違うものとして意識されているんじゃないかと思った」という白倉さんの言に深くうなずいてしまいます。

ウルトラマンも観てたけど、ライダーとウルトラマンどっち派かって言われたら断然ライダー派でしたもの。

ウルトラマンは宇宙人が別の宇宙人をやっつけるお話ですもんね。なぜか戦場が地球になってるだけで。

対談の中ほどは、白倉さんが2004年に出された『ヒーローと正義』という本の内容を踏まえて語られます。


そんなことされたらまたこれも読まなくちゃならなくなるのでホント困るんですけど(笑)。

「ヒーローはストーリーによってヒーローになっているわけではない。不思議な出生、怪物退治、財宝獲得という三つの要素があるとそれを私たちは“ヒーロー”だと感じてしまう」

桃太郎はなぜヒーローなのか。鬼ヶ島の鬼は最初から「悪者」だけれど、具体的にどんな悪さをしたのか。

「アメリカのJusticeと日本の正義の違い」というお話も面白い。

「彼ら(アメリカ)にはおそらくそういう二律背反的な状況に決然と断を下すのがヒーローだという考え方がある。それが本にも書いたjustice、ジャッジするということですね。それに対して日本のヒーローは二律背反の状況に置かれたら「選べない!」と叫ぶほうがヒロイックに見える」 (P18)

まさに!!!

前者は「白熱教室」ですよねぇ。「相反する二つの立場、さてあなたはどっちを選ぶ?」という。

そして私はフォーゼの弦ちゃんに後者の叫びを発してほしかったのですよ。Aもダチ、Bもダチ、どちらかしか選べないとしたらどうするのか。まぁ弦ちゃんは「どっちも助ける!」って言うんでしょうが、そーゆー選択を迫られること自体なかったように思うんですよね。

「古いダチ」と「今のダチ」、どっちを選ぶかで苦悩していたのは流星さんであって、弦ちゃんじゃなかった。

対談のまとめに入るところでは國分さんがGACKTさんの言葉を出してらしてびっくり!

↓ このつぶやきに「僕はぐっときた」と。




ディケイドで主題歌を担当し、ライダーマンとして映画にも登場してしまったGACKTさんではありますが、まさかこのような本の中で哲学者さんの口から言及されるとは思いませんでした。

いい言葉だな、と思う反面、子ども達はみんな「異人」だがベルトをはずすことによって「その社会で容認される人間」になっていく……というふうにも言えるんじゃないかと思ったりして。

「子ども」には残酷な一面もあるし、やっぱり社会の一員として「成熟」していかなければならないと思うし。

特別な力を持った「ヒーロー」であることと、特別ではない一人一人が知恵を寄せ集めて大きな仕事をなすということと……。

まぁ、GACKTさんが言いたかったのは別にヒーロー論ではなく、「子どもの可能性を摘むな」という話だと思いますが。

えー、それで、白倉さんと國分さんの対談の続きですが。

先ほどの「桃太郎はなぜヒーローか」という話に立ち戻り、白倉さんは

「たとえ政治的に整理されたものでもどんぶらこと桃が川を流れてくるというのは意味不明ですよね。(中略)イエス・キリストの誕生はどうして馬小屋じゃなければいけないのかとか、ブッダはどうして脇の下から生まれてきたのかとか、「なんですかそれ?」というわけのわからなさがヒーローをヒーローたらしめているし」 (P20)

「理路整然と修正してしまうとお話としては死んでいく部分があるわけです」 (同上)

とおっしゃいます。

うんうん、すごくよくわかる。

「理屈っぽい」というのと「ドラマティック」というのは相反するところがありますよね。

「なんだかわかんないけど感動した!」っていう(笑)。

『フォーゼ』の最終回やら『ディケイド』のとっちらかったままのお話についてツッコミを入れるのも、実はそれが「楽しい」し、その無茶苦茶さ、割り切れなさがあるゆえに魅力的なのです。

白倉さんは「正義云々よりも、その「わけのわからなさへの志向」こそが一番守らなければならないところだと思う」、と言ってらっしゃいますが、ホント「荒唐無稽だからこそ描ける人間性の真実」みたいなものをこれからも仮面ライダーにはたくさん見せてほしいなぁ。

ただ。

白倉さんは「2014年危機説」というのも唱えてらして。

すっかり定着したかに見える平成仮面ライダー、しかしまだまだその存続はわからないと。すでに若い親御さんは昭和ライダーも見てなければ平成ライダーも見ずに大きくなった方々で、従ってライダーに愛着がない。子どもにも見せないかもしれない。

あと5年ほどライダーが続けば『クウガ』や『アギト』を見た世代が親になる、そこまで行けばまた希望がある。

で、「2014年を乗り越えればなんとか」と思っていらっしゃるそう。

ふむぅ、なるほど。

実はうちの子は幼児の頃は戦隊もライダーも見てなくて……。あまり子ども向けのものに興味がなかったというか。日曜8時だとまだ寝てたというか(笑)。

昭和ライダーで育ったのに子どもに見せなくてすいませんでした。その代わり今頃親子で一生懸命映画まで見てますから!(爆) さすがにディケイドライバーとかオモチャは買ってませんが。

「番組存続」としてはそこが一番重要なんでしょうけどね。オモチャの売り上げが。大きいお友達がいくら毎週ライダー見てツイッター等で実況してくれても、スポンサーは儲からないから。

あと2年。がんばってほしいなぁ(この人は一体いつまで仮面ライダーを見続けるつもりなのだろうか)。

そして。

もう一本興味深かったのが脚本家井上敏樹さん、『リトルピープルの時代』の宇野さん、作家の川上弘美さんによる対談。

いいなー、作家になるとこういうところでライダー談義ができるんだ。羨ましい(←羨ましがり方を間違えている)。

『剣』の批評を担当された方の肩書きが「サラリーマン」になっているので、もしかしたら「主婦」のままでも参加させてもらえたのかもしれないけれど(←だから何を目指してるの(笑))。

それはともかく、井上さんが「ヒーローはいない方がいい」っておっしゃってるのがすごく興味深いなぁと。

「存在すると怪人になってしまう。だから月光仮面は“疾風のように去っていく”し、ウルトラマンは3分しか戦えない」

「ヒーロー」って、「特異な存在=怪物」であり、「非日常」ですからね。

さっきの、「異質な存在である子どもが社会性を獲得してつまらない大人になっていく」じゃないですけど、世界が「怪物」ばっかりだったり、「非日常」に居座られて戦いが日常になったりしたら困るわけです。

『七人の侍』でもヒーローたる侍達は「通りすがり」で、役目を終えたら村を去っていく。村の娘と恋仲になって居残る若侍はいますけれど、彼は恋と引き替えに刀を捨て、農民として地味に「日常」を生きていく存在になるわけです。

『七人の侍』をリメイクした『荒野の七人』で、自分達アウトローを「カッコいい!」と慕う子ども達に向かってチャールズ・ブロンソンだったかが「お前達の親父さんの方がよほど偉いんだ。家族を守るなんて大変な仕事、俺には怖くてできねぇ」みたいなことを言うシーンがあって、大好きなんですけど、子どもの目に「非日常」はとてもカッコよく見える。でもそれは地味な「日常」がしっかりとあってこそなんですよね。

「平成ライダーのいちばんの特徴はやっぱりヒーローを殺したことなんだよ。(中略)最近は街でチンピラに絡まれることもないし、安全なんだよ。だから私生活をなんとかしてくれと、手術が怖いから勇気づけてくれよとか恋愛で悩んでるんだよとか、ヒーローを素人の目線に引きずり下ろしたんだ。その最たるものが平成ライダー」 (P61)

井上さんたら身も蓋もない(笑)。

超越的なヒーローを待望しない世の中の方が「平和」で「成熟」しているのでしょうけれど……うーむ、この先2014年を乗り越えるためにはどんな「ヒーロー」を描けばよいのか…。

宇野さん単独インタビューもあって、「フォーゼにおける弦太郎と賢吾はむろん、翔太郎とフィリップの再話」って言ってらして、「さすが!」と。でもまさか宇野さんも賢吾くんがフィリップ同様「(生きた)人間ではない」とは思ってなかったですよね? そこまでお見通しだったのかな…。

一旦その存在が消えて、最終回に「人間として再生」というとこまで同じだったんだけど、「終盤は弦太郎がなんで戦うのか、という部分を賢吾との関係性の物語を通してしっかり描いてほしい」という宇野さんの希望は……裏切られた!?

愛想なしで「友達なんか要らない」と言ってた賢吾くんがかなり弦ちゃんLOVEになってたのは中盤くらいで描かれてたと思うんですけど、結局「全員とダチ!」な弦ちゃん側からは「賢吾一人との関係性」が描けないというか十把一絡げというか。

まぁそーゆー作品だったんですよねぇ、『フォーゼ』は(投げやり)。

宇野さん、こんなことも言ってらして。

「『W』以降の平成仮面ライダーはとにかく完成度が高くて、隙がない。けれど観た後にあんまり引っかかるものがない。でも『スーパーヒーロー大戦』の最後にディエンドがヤケを起こして裏切るでしょう?あの後味の悪さが素晴らしいんですよね。「いい話」にまとまらないああいう作品があることで、平成仮面ライダーシリーズってぐっと幅が広がっていると思うんです」 (P69)

わはははは。

『スーパーヒーロー大戦』の感想はこちらに書きましたが、ラスボスがディエンドというのにはホントびっくりしました。

ディエンド=海東くんが裏切ることより、フォーゼ達が何のためらいもなくディエンドをドッカーンとやっつけてしまうところが「後味悪かった」です(笑)。

“「いい話」にまとまらない”って、白倉さんのおっしゃってた「わけのわからなさ」に通じるところですよね。

「理路整然」だけでは面白くない、そして「いい人」ばかりでは面白くない。

宇野さんは『555』の提示した世界の「その後」についても興味深い話をしていらっしゃいます。

「「外部」のない世界、「敵」のいない世界、閉じたシステムの中でゲームをするしかない世界をどう変えていくのか」 (P70)

これってまさに「現代社会」が抱える非常にめんどくさい問題だと思うんですよね。

冷戦構造が崩れて、「社会主義」という「敵」が消えて、資本主義とグローバリズムがほぼ世界的に「正義」だと認められてしまって、すでに「市場」は飽和して「未開拓の外部」というものはないに等しい。

「これ以上の成長はありえない」という閉じられたシステムの中でただ金を動かすゲームをしているだけ……。

『555』は「誰でも仮面ライダーになれる」、その結果「敵」や「味方」という概念が成立しなくなるという境地(?)に肉迫した作品だった(らしい)のですが、別の方が「女の子はライダーになれるのか?」という評論を書いていてですね。

「女の子は誰でもプリキュアになれる!」に対して「男の子はみんなライダーになれるのか?」ということを提起されています。

「みんながライダー」ということは誰も特別じゃない、ということなので、そんな世界でライダーになってもしょうがないですよね?(笑)。

「ヒーロー」が「特別」なものであるのは、誰もがなれるわけじゃないからであって。

この間読んだ橋本治さんの『その未来はどうなの?』という本に、「美人は権利である」って話が出てきたんですけど、「女の子は誰でもプリキュア」っていうのもそれと同じだと思うんですよね。

女性にとって「美人であること」というのは基本的人権の一つであって、「私が美人であってもいい」とみんなが思い始めた時から、女性はみんな十分に綺麗になってしまった。

今ほんと、道行く女の子みんな可愛いですからねー。

一方で男性にとって「イケメン」は権利にならない。それは世の中が男性優位社会で、「ブ男」であっても「社会的には強者」という前提になっているから。

まぁ大声で反論したい方もたくさんいらっしゃるとは思いますが(笑)、私じゃなくて橋本さんが言ってることですし、「男性であるというだけで社会的には強者の側に入る」というのは今でも生きていると思うんですよ。だからこそ男性は一旦「社会」からこぼれると終わりというか、一気にホームレスになっちゃうみたいなことになるんだと。

女性の場合もとから「社会的に弱者」なので、失敗したり挫折することが「折り込み」済みで、「様々に弱者」「弱者なりに生きる」ということが可能だけれども、男性の場合は「弱者」になることが許されない→即、居場所がなくなる。

これも以前に橋本さんが書いていたことなんですけれどもね。

で、「女の子はみんなプリキュア」っていうのは「女の子はみんな可愛い」「可愛い女の子は魔法が使えて当然!」っていうことじゃないかと思うんです。

女の子はみんなプリキュアになる「権利」がある。

それはもう「特権」ではなくて「基本的人権」であり、「様々に可愛い」は全然OKなので、「みんながプリキュア」でも世界が破綻しない。

あー、それとあれかな。

「みんながライダー」だと「敵」がいなくなるんだけど、「みんながプリキュア」でも「男子」という「外部」=「敵」が残ってるから破綻しない。

男子が「みんながライダー」になった時に「敵」を想定できなくなる、っていうのは、やっぱり「女子」を「敵」としてはいけない、そもそも「女子」は物の数ではない、という前提が……。

別に「女の子」だった時代にも私は昭和ライダーを喜んで観ていて、「ゴレンジャー」や「キカイダー」や「イナズマン」と言った、「男の子向け番組」をフツーに観ていたわけで、今だってライダーを観てる女の子はいると思うんだけど、実際の女子視聴率に関わらず、「男の子向け番組」として作られていることはまぁ、間違いないんでしょう。

女の子向けだと「みんなプリキュア!」という番組作りになり、男の子向けだとそうは作らない(作れない?)、というのは面白い違いだと思うなぁ。

男の子は「みんなライダーになれる!」より「君だけがライダーになれる!」の方がきっと嬉しいんじゃ……。

劇場版だったり、一時的に登場する女性ライダーはいても、レギュラー陣としての女性ライダーはまだいない。

『龍騎』なんか13人もライダーがいるんだから、5人くらい女性でもおかしくないのに、みんな男性ですよね。なぜ神崎士郎は女性にはカードデッキを渡さなかったのか。

女性だとすぐ倒されちゃってライダーバトルが継続しない? うーん、そうとも限らないと思うけど。

「戦いに勝ち残ればどんな願いでも叶う」となれば、むしろ女性の方が残酷に戦っちゃったりしないかな。

「戦隊」には女性がいるのに「ライダー」にはいない。たとえば二号ライダーとして女性ライダーを出したら「戦隊」との線引きが難しくなる、というのもあるのかもしれない。

あ、誰でもオルフェノクの可能性がある=誰でもライダーになる可能性がある、の『555』は理論的には女性のライダーがぼこぼこ出て来てもおかしくないのかな?

「正義」の範囲がどんどん狭くなり、「ヒーロー殺し」と言われながらも「女性ライダーを描かない」というのはある意味、仮面ライダーが仮面ライダーであり続けるために「越えてはならない一線」なのかもしれないなぁ。


2014年危機など乗り越えて、末永くライダーが続かんことを。