(10巻の感想はこちら

11巻です。前半は平治の乱の後始末。義朝の遺児たち、そして妻はどうなったかという。

まずは悪源太義平。父義朝とは別のルートで東国へ向かったものの結局逃げ延びられず、都へ戻った悪源太。さすがの彼も真冬の逃避行に病み窶れ、あっさり捕縛されてしまいます。そして斬首。まだ二十歳。しかしその死に際は堂々たるものでした。

「今生の武運はこれ限り!ならば、死して後、雷となって汝をはじめ平家の一門、残らず蹴殺してくれる!経房、覚悟を決めて悪源太の首、早々に打って取れい!」 (P34)

なんとも天晴れな武者です。もしも義平が無事東国へたどり着いていたらどうなっていたのでしょう。源氏の嫡男、源氏の棟梁の座は当然頼朝ではなく彼のものだったはずで……。彼の直截な性格では「幕府を開く」というような政治的なことはあまりできなかったような気がするし、ここで生き延びてもうまく頼朝に討ち死にさせられてたかも。

武者らしい源氏が敗れ、武者らしくない平氏が勝った平治の乱。

武者の一族の棟梁、平清盛は、「合戦」に意味を見出ださなかった。その点で清盛は、武者であって、武者でなかった。 (P35)

清盛の中から騒がしい合戦の記憶は消え、「武家の一族」という不必要な自覚も消えた。その先の清盛の思うことは、都の貴族として、着実に栄華への道を進み行くことだけだった。 (P36)

源氏に比べれば伊勢平氏はずっと「都の人間」で、清盛の父忠盛は「成り上がり」「飼い犬」と蔑まれ闇討ちにまで遭いながら「貴族」としての地歩を固めてきた。その父の生き様を見てきた清盛にとって、「戦」というのは剣を交えるだけのものではなかったのですね。むしろ「自分達を侮り受け入れない貴族社会」で生きていくことそのものが大事な「戦」だった。

しかし、根っからの武者である平家貞は、老いた奥歯の端に砂の一粒を噛むほどの違和を感じた。主人の清盛は、主を殺した長田の庄司をかばったのである。 (P39)

主人たる義朝をだまし討ちにした長田の庄司。「根っからの武者」である家貞にはその不忠義が許せない。主人を裏切りながら褒賞を要求し、「その程度の褒美では足りん!」とまで言い出す不届き者。「あんな奴は打ち首にすべきだ!」と言う家貞を、清盛は取り合わない。「長田の庄司がどんなクズであれ、かまうものか。朝敵を討てば褒美がもらえる。それを世間に知らしめることが肝要だ」と。

大河では家貞は中村梅雀さんが演じてらして、とても素敵なんですけど、この11巻の40ページあたりに描かれる家貞と忠盛のエピソードがまた、すごくいいんです! 梅雀さんと中井貴一でばっちり脳内再生。

家貞は平治の乱が終わった時もう77歳で、忠盛パパよりも12歳年上だったそうです。忠盛パパはもう亡くなっているわけですが、例の、「闇討ち」の事件の時に、家貞は庭に控えていたのですね。忠盛に何かあればすぐ殿上の間に駆け上がるべく、忠盛に無断で太刀を携えて。

その家貞の思いを知る忠盛は「ご無事ですか?」と問われて何も答えず、後から子細(「伊勢の平氏はすがめなり」と囃され大いにからかわれたこと)を知った家貞に詰め寄られても、「言えばそなたの咎になる。そなたを罪に落とすわけにはいかん」と。

あああああ、忠盛パパ素敵すぎる!!!

その血気ゆえに、忠盛は家貞を思う。その自制と冷静ゆえに、家貞は忠盛を思った。主従とは、そのような関係であると、家貞は理解していた。 (P42)

忠盛は、御世にご君臨なし遊ばされる鳥羽院に対し奉って、「我が郎等は引き渡しませぬ」と、抗い奉ったのである。 (P43)

殿上の間近くに許しも得ず太刀をたずさえて控えるなどというのは貴族達にとってみれば「重大な犯罪」。しかし忠盛パパは「主人の危難を思って駆けつけることは武者の習い。武者の習いを咎められますのか?」と鳥羽院に言ってのける。

うぉぉ、もうホント、なんで大河ドラマ、『平忠盛』じゃないの(笑)。一年もやらなくていいから、外伝でいいから、中井貴一&梅雀キャストでじっくり『平忠盛』描いてほしいわぁ。

で。

清盛が「武者」であることよりも「都の貴族」であることを明確にしだした一方、朝廷では。

頼長の養女として近衛帝の后になった多子が二条帝と再婚、二代の后となりました。

再婚と言っても多子はまだ21歳になったばかり、18歳の二条帝の后になって別に不釣り合いはありません。ただ、多子は美福門院に憎まれた后でした。養父である頼長はあんな死に方をし、近衛帝亡きあとはすっかり忘れられた后。

しかも、二条帝の中宮は美福門院の娘であり、この時二条帝は美福門院の邸を御所としていたのです。美福門院によって「近衛帝の身代わり」のようにされていた二条帝にとってみれば、「近衛帝の后を自分の后にする」は「より近衛帝に近づく」ことであり、また、平治の乱に勝った自身の力(信西と信頼という院の側近が消え、院の御所の力が削がれたのですから、朝廷のトップたる帝はある意味“勝者”です)を誇示したい思いもあったのでしょう。

多子の入内を快く思うはずのない美福門院と二条帝の間に、はっきりと溝が生まれました。

そして二条帝は、突如「父」を振りかざして「おまえ、近衛帝の后を求めるとか何なの?やめとけよ」と口をはさんできた後白河院をも拒み、世に再び院の御所と帝との対立が生まれたのです。

何方も何方も、立派な傀儡となりうる要件だけは備えている。なぜならば、何方もご威光ばかりは強くあって、それを支える力の実質がない。それを備えようとしても、決して宿らない。なぜならば、王朝の時が終わろうとする時、「力」なるものの質もまた、変わろうとしていたからである。 (P78)

「なにかが起きる――。それは、必ず起きる――」都に兵を擁する「ただ一人の武者」となった清盛は、王朝の貴族達とはまったく違う視点によって、混沌たる時代の分水嶺を見つめていた。 (P81)

何が起きたかというと。

多子入内の翌日、重盛が左馬頭に任命されました。左馬頭――そう、義朝が任じられていた官です。

「天子に父母はない」として父院のお諫めを斥けられたお主上は、斥けられた父院へのお備えとして、伊勢の平氏をお求めになられたのである。清盛には、そうとしか思えなかった。 (P83)

院の御所を失った清盛は、従うべき指揮系統をなくしていました。大河でも描かれているように、清盛は信西の命によって動いていたし、「仕える者に従う」のが王朝の世に生きる武者。

橋本さんの筆になる清盛は「狗」の性格が強くて、「自分自身の決断で何かをなそう」という意識が薄い。「一門の栄え」や「侮られないこと」を望みはしても、「野心」というほどのものは持っていなかった清盛。それが、いよいよ変わってくる。

王朝の戦いで、「武力」は第二の案件である。第一の案件は、朝廷を従えうる、王朝人士としての威勢である。清盛に、まだそれはなかった。「王朝人士の一員」という自覚も。それが生まれたのは、八条堀川に復活した院の御所と、お主上との間にご角逐が生まれようとしていた、この時だった。 (P86)

さてそして、平治2年2月9日、関ヶ原で平家の郎等宗清に捕らえられた頼朝が六波羅に連れてこられます。清盛にとっても、王朝貴族達にとっても、「もう戦は終わった」もので、正直どうでもよかったようなものなのですが、清盛の義母たる池の禅尼はなぜか頼朝に執着し、「まだ若いのだからどうか命ばかりは助けてやってくれ。清盛殿のお力があればそれぐらいできるはず」と訴える。

もちろん清盛は取り合わず、「そういうことは朝廷が決めることですから」と逃げるのだけど、肝心の朝廷がちっとも頼朝の処遇を決めてくれない。それで重盛や頼盛はさんざん池の禅尼にせっつかれることになるのでした。

そんな中、平治の乱で信頼を裏切り二条帝を救出したことですっかり「お主上の側近」になっていた経宗、惟方の二人。よせばいいのに、二条帝に対して「院の御所の桟敷を塞ぐよう」進言します。

後白河院は御所に通りを眺められる「桟敷」を作って、下々の様子を見るのを楽しみにしていたのです。そして「頼朝の首がここを通るのを眺めたいもんだよなぁ」などと言い出す。

「そんな変人の血筋だからお主上も」と、二条帝が多子を迎えたことを許せない美福門院は経宗・惟方に愚痴る。「そもそもあんた達側近がしっかりしてないから――」と責められて、惟方が思いついた妙案が「院の桟敷を塞ぐ」こと。それによって院を牽制するのはもちろん、お主上の力を知らしめて美福門院をも制そうという思惑だったのだけれど。

経宗も惟方も、院を見縊り奉っていた。「暗愚の君」とひそかに称され奉られながら、後白河院は、権謀術数の臣信西のなしようを、最も近しくご覧じられていたお方なのである。 (P131)

桟敷を打ち壊されるという狼藉を働かれた後白河院はすぐに誰の仕業か見抜き、忠通を呼ぶのですね。前関白、摂関家の長、藤原忠通を。いやはや侮れぬ!

院と、前の関白と――魔性のような力が、ここに結びついて、蘇るのである。 (P131)

そして二人は清盛を呼び寄せるのです。清盛の待ちに待った「機会」がついに!!!

「内裏へ、両名を召し捕りに入る。しかれば清盛、供奉を勤めよ」(中略)御世の上皇が武者を従えられ、罪人捕縛のため御幸ましまされるなどとは、前代未聞の仰天事である。四年の間に、事態はかくも変わったのだ。 (P134) 

4年というのは「保元の乱」から数えてのことですね。保元の乱1156年、平治の乱1160年。たった四年の間に、「朝廷」の権威はそんなにも落ちて、「武者」というものの立ち位置も変わった。

まぁだからってそんな無茶なことするの後白河院だけでしょー、って思いますけれど。

合戦や死罪の禍々しさを怖れる貴族達によって経宗・惟方は死罪を免れ流罪に。その余波でやっと頼朝も流罪と決まる。

頼朝の命が助けられたと知って、大和に逃げていた常盤が都に戻ってきます。そして老母が捕らえられたと知り、まずはもともと仕えていた近衛帝の后呈子のもとへ。「お力をお貸し下さい」と頼むとなぜか呈子は「六波羅へ参るなら車を出してやろう」と。

常盤は別に直談判する気はなく、呈子から口添えしてほしかっただけなのだけど…。

ともあれ仕方ないので常盤は六波羅へ。もちろん平氏の男達から好奇の目で見られまくり、清盛にも「さほどの美女か」と舌なめずりされます。ああ、常盤…。

というところで少し「清盛と女」の話になります。「女に恵まれなかった清盛」という。

二十一歳になった清盛が嫡男の重盛を得たのは、高階一族の名もない男の娘だった。伊勢平氏の嫡男を婿に取って支えようとしたのは、六位の名もない男だったのである。 (P171)

大河では大層なラブロマンスだったのにねぇ、明子…。

一方その後正妻となる時子は公家平氏の娘で、伊勢平氏より格の高い、「しかるべき家筋の妻」だったらしい。時子の父親は最初「あの程度の家に娘をやれるか」と清盛の求婚を断ったのだとか。

断られて、それでも諦めずに手に入れた「しかるべき家筋の妻」なのだけれど。

「しかるべき家筋の妻」がないことは、ある意味で、男にとっての幸福かもしれない。 (P173)

つまり自由によその女を漁れるから、ってあなた。ホントに男ってやつぁ…。

で。

伊豆へ流される前の頼朝と対面する池の禅尼。亡き家盛の面影を頼朝に見てしまう彼女の心の中には、やはり清盛への怨嗟があるのでしょうか。清盛を討ち倒してくれる人間を無意識的に求めているのか……。

かつて祇園社で清盛が起こした騒ぎと、その数年後に起きた家盛の若すぎる死を結びつけて考えている池の禅尼。神を怒らせた清盛、その祟りが我が子家盛の命を奪ったのだと。

その年(祇園社事件のあった年)、池の禅尼の生んだ第一子家盛は、二十一歳の左兵衛佐だった。頼朝が「兵衛佐」であったことも、池の禅尼には愛おしさの一因となっていた。 (P182)

池の禅尼の中には、分裂があった。忠盛から伝えられた伊勢平氏を守り、栄えさせる役割は清盛にある――しかし、その一族は、忠盛から彼女の腹の子に伝えられるべきものであると。 (P184)

難しいよね。やっぱりお腹を痛めた自分の子が愛しいものなぁ。清盛は忠盛の血を引いてさえいないわけだし…。

そしてそれは時子腹の宗盛達と、明子腹の重盛にも言えることで。この後清盛と重盛の父子の相克っていうのがはっきりしてくるけど、母を同じくする弟基盛に死なれて、重盛が一門の中で孤立していったことも大きな要因だったのでしょう。「しかるべき家筋の妻」ではなかった母・明子には、重盛の後ろ盾をしてくれるような親戚もいなくて。

男は子どもをたくさん作ることが「一族の栄え」に繋がるのかもしれないけど、女にとっては、そして子ども達にとっては、ねぇ。

頼朝の命が助かって、それなら私の子だって助かるはずと思う常盤はまだ六波羅に留め置かれていて、とある夜、清盛が部屋にやってくる。そうして「子ども達の命は助かるかもしれぬ」と言って常盤の袖を押さえるのです。

嗚呼、ホントに男ってやつぁ!

一年後、常盤は清盛の胤を享けた娘を生んだ。更にその翌年(中略)藤原長成なる男の許へ、妻として下げ渡されて行った。 (P189)

子ども達も自身も生きながらえることができたのだから、それを良しとするべきなのでしょうか。まだ若い常盤にとって、義朝との日々はどれくらいの意味があったものでしょう。忘れ形見の子ども達三人は仏門の道を歩くべく処遇されて、自らの手で育てることはかなわなかったけれど、その時代にはさして珍しいことでもなかったでしょうし。

義朝と常盤の間に生まれた三人の息子。長兄今若は荒法師となり、乙若は黙々と生き(しかし墨俣川の戦いとやらに参加したらしい)、牛若は出家せず義経となる――。

続きます