(前半「平治の乱の後始末」はこちら

11巻続きです。

後白河院と摂関家忠通が手を取り、清盛を呼び寄せて経宗・惟方を捕らえた。いよいよ清盛の栄華が始まろうとしていました。

11巻の後半は、清盛の妻・時子の腹違いの妹である滋子が後白河院の御子を産むことを中心に進みます。

その年、永暦元年。春3月25日、後白河院は日吉大社へ御幸します。その一行に清盛も供奉。平治の乱が終わり、御世の中枢である人々にその力を求められ、清盛にとっては生涯でもっとも幸福な時期が始まったのですが、それから25年目の3月24日、平家は西海に滅びることになるのです……。

永暦元年6月、正四位下だった清盛は一気に正三位に昇進。忠盛パパ死去から7年が経って、8月、清盛はついに参議になりました。「伊勢の平氏はすがめ」と侮られた武者の一族が、朝政に参加する地位にまで昇ったのです。これは後白河院の力というより、二条帝の力によるものだったようです。近臣を失ったお主上はかつての乳母の夫であり、都にただ一人の武者となった清盛を味方にしようとしたのです。

そう、時子はかつて二条帝の乳母でした。

時子が17歳の時、25歳の清盛が夜這いに来て、時子は清盛の子を産みます。でもその子は産まれてすぐ亡くなり、時子は守仁王(二条帝)にお乳をあげることに。その後29歳になった清盛は改めて時子を妻に求め、宗盛を得るわけですが、この永暦元年、時子はなんと従三位の位を受けています。

後白河院の乳母で信西の妻朝子も従二位を受けて「紀伊二位」と呼ばれていました。乳母というのはすごい地位だったんですねぇ。

その時子の同腹の弟であり、公家平氏である時忠はこの時31歳。従五位上。「陰湿で矜り高く、野心に満ち満ちて嗅覚ばかりが鋭敏な男だった(P207)」。

二条帝の中宮よし子(「女偏に朱」漢字出ない)内親王(鳥羽院と美福門院との間の娘)が出家し、病を得た美福門院ともども内裏を出ました。二条帝に、まだ御子はおらず、御世に「東宮」は存在しません。そこに何の匂いを嗅ぎ取ったのか、時忠は異腹の妹である平滋子を後白河院のそばに上げるべく清盛に働きかけます。

そこで久々に名前が出てくる信西の妻朝子とその息子達。信西が打ち首になっても朝子は後白河院の姉、上西門院のもとで健在なのでした。

清盛は義弟時忠が嫌いだったようだし、「こんなことも思いつかないのか?」と言わんばかりの薄笑いを浮かべる時忠の提案にうろたえます。後白河院に一族の娘を奉る。それはつまり、「帝の外戚になる可能性」を思うことです。そんな畏れ多いことを考えたこともなかった清盛ですが、朝子とその子(つまりは信西の子)のことを持ち出されると、清盛は動かざるを得ません。

かつての「主人」と言っていい信西の遺児に、清盛はまだ報いていなかったから。

人の上に立つ者は、下を潤すのである。潤すために、貪るのである。潤される者達は、自身が潤い続ける限り、上の非道を譏らない。ただ、暗く嗤うばかりである。 (P224)

「上に立つ者」になって、でもまだ「下を潤す」にまで気が回っていなかった清盛。なんというか、この「上と下の関係」、いいのか悪いのかって感じですが……。

時忠が清盛へ求めたのは、滋子への後見ではない。滋子を院へ奉るための、紀伊二位朝子への橋掛かりだった。(中略)清盛は、分に過ぎた栄華への道を、歩まざるをえなくなっていた。 (P226)

永暦元年11月初め、滋子は後白河院の姉・上西門院のそばへ女房として上がり、院のお手つきを得ます。そして11月23日、美福門院逝去。

翌永暦2年9月3日、滋子は後の高倉帝を生み、9月4日には永暦2年は応保元年と改元されます。

滋子が子を産む数ヶ月前、永暦2年の4月に清盛の寄進した後白河院の新しい御所、法住寺殿が完成。八条堀川から院が遷ります。そこは六波羅の南(三十三間堂のあるところ。今だと京阪七条の駅から徒歩10分)、信西の別荘の跡地でした。「かつては“二条・三条あたり”だけが都だった」と前に書きましたが、当時その法住寺の辺りは「都」の外と思われていたようで、橋本さんは「法住寺に遷る→都を出た後白河院」というふうに書かれています。

院は、御世に第一のご優位を保たれることをお望みになる。蔑ろにされ給われることを、決してお赦しにはならない。にもかかわらず院は、朝政へのご意志をお示しにならないのである。 (P240)

基本政治には関心のない人だし、下々の暮らしを「面白い」と言って眺める方だし、「都」にいる必要を感じなかったのでしょうね。

で、院はその法住寺殿にいて、清盛は「参議」ですから朝廷(帝のいる内裏)にまめに参内しています。後白河院は朝政に興味はないのですが、

ただ、ご自身の臣が、院の御所より内裏をお大切と思い奉るそのことが、院にはおもしろからぬように思し召されるのである。 (P266)

困った人ですね。

清盛は、武者の第一である。と同時に、清盛は、正三位を賜る公卿でもある。武者と公卿――そのような両面を兼ね備える者は、平安の世に、かつてなかった。 (P242)

清盛自身は「武家政権」というものを作ったわけではないけど、「武者にして公卿」という初の存在だったことを思うと、大河ドラマでナレーションの頼朝が「平清盛がいなければ武士は」みたいに言っているのも納得です。

摂関家に仕え、お主上に仕え、武者の第一であるばかりでなく権中納言として公卿として、人に侮られることもなくなった清盛。清盛の生涯でもっとも幸福な時期でした。

「ちぇっ、なんだよ清盛、内裏ばっかり行きやがって。ぷんすか」と思う後白河院はそれを清盛の嫡男である重盛に愚痴ります。もともと「子ども」というものに興味のない後白河院、滋子が懐妊するとさっさと滋子に興味をなくし、その御寵は重盛に。

自身の妻の弟が差し出した娘が院のお胤を孕むのと、自身の嫡男が院のご寵を得るのと、清盛は、どちらを喜ぶのか。 (P249)

どーゆー選択肢なんですかそれ。平安時代怖い…。

で、さて。

滋子が後白河院の御子を産み落とす前の月、永暦2年8月、「二代の后」となっていた多子の父公能が亡くなり、服喪のため多子が内裏を去ります。中宮よし子内親王はすでに内裏を離れていましたから、二条帝のそばに「妻」がいない状態に。

まだ御子がいない上に、「妻」たる女までそばにいなくなったお主上。この状況で新たに後白河院に御子が産まれる、しかも清盛の親族を母として、というのは実になんとも騒動の種です。

なので滋子が男御子を生んだ夜、忠通は清盛を呼び、「権中納言にしてやるから生まれた子の親王宣下はないと思え」と言い渡します。

しかし滋子の義兄たる時忠は妹が生んだ子を「いずれ東宮になる」と吹聴してまわり、それを「不敬」として官を解かれてしまいます。時忠の野心と清盛の立場との微妙なずれ。

「その子を東宮にはしない」と清盛に言い含めた忠通は、その年の暮れ、12月17日に養女育子を二条帝のもとへ入内させ、中宮とします。翌応保2年3月には、二条帝は中宮の義兄である関白基実の邸へ遷ります。摂関家の邸が「里内裏」になる。后を出す家、帝の外戚として力を奮う家。摂関家の栄華が蘇ったのでしょうか――?

この年、忠通は出家するのですが、その話を聞いた後白河院は摂関家の寺・法性寺に対抗して、「千体千手の観音の寺を造れ」と清盛に命じます。それが蓮華王院、つまり三十三間堂。

あの界隈は国立博物館があってよく行きますし、三十三間堂だって行ったことあるのですが、そういう来歴だったのですねぇ。知らなかった。

で、忠通出家の10日後、その父である忠実が85歳で死去。頼長をあんなふうに死なせた困った父ちゃん、罰も当たらず長生きしましたね。

さらにその5日後、時忠が出雲に流されます。

応保2年の春には清盛の次男基盛も死去していました。そして8月、清盛は従二位へ。

翌応保3年は長寛元年と改元され、長寛2年の春2月、忠通は68歳で死にます。

「その子を東宮にはしない」と言い含めた忠通。基実に娘を奉りたいという清盛の願いをも固く拒んでいた摂関家の長が死んで、清盛は基実との縁組を成し遂げます。長寛2年4月、清盛の9歳の娘。盛子は22歳の基実の北政所となりました。時に清盛47歳。

望んで権中納言となり、望んで従二位を得たのではない。望む前に、与えられた。清盛が望んだことは、その「報恩」だった。望んで得られなかったその行為は、長寛二年の四月に実現された。 (P283)

わずか9歳の娘を摂関家の北政所に据える。周囲から見れば、それは平氏による摂関家の簒奪、大いなる野心の表れとも見えたでしょう。けれど橋本さんは、「その時清盛に野心などなかった」と書きます。清盛は、摂関家の若き当主基実をその財力で支えたかった。であればこその盛子との縁組でした。「舅」として「婿」の後見をする。それが清盛の摂関家に対する「報恩」だったのです。

長寛二年の御世は、穏やかだった。表立ったご不和や対立は、御世のどこにもなかった。誰も彼もがてんでんばらばらに生きて、対立は回避されていた。すなわち、「中心の喪失」が明らかになり始めていた。幼い娘を摂関家へ送り込んだ清盛は、なにも知らぬまま、喪失された中心へと続く、野望の道を歩き始めていた。 (P283)

一方、27歳の重盛は蓮華王院造成の功(まだ完成はしてない)を院に賞され、正三位に位を上せます。

11月、摂関家の后ではなく、、名もない女蔵人の腹から二条帝の御子が誕生。後の六条帝です。8月には讃岐にて崇徳院が逝去しました。流されてから丸8年。46年の生涯でした。

既に、保元の乱を知るお方は、後白河院と清盛のただ二人となった。忠通が逝くのを待ちかねられたように、讃岐の院は、四十六歳を一期となし遊ばれてお隠れになった。讃岐の院を攻め奉った清盛と、そして後白河院に、「この後の地獄を見よ」と仰せられるかのようにして。 (P286)

十年一昔と言いますが、8年前に流罪になった上皇のことを誰が覚えていたでしょう。その時まだ彼には「名」さえもなかった。人が讃岐の院の祟りをささやき、「崇徳院」の御名を贈るのは逝去から7年もたった後のこと――。

保元の乱は、忠通と頼長という摂関家の兄弟争いが大きな要因でした。忠通を失った若い摂関家の長・基実には2歳年下の弟基房がいて、彼は父の遺訓に反して清盛の娘を娶った兄に批判的でした。

基実と二歳齢下の弟基房とは、母が違う。しかも困ったことに、二人の母は姉妹の間柄だった。二人の母達の間に家格の違いはない。(中略)兄の基実は「嫡男」であることを疑わず、二歳齢下の弟は、「弟」であることの意味を自覚したがらなかった。 (P289)

忠通は早く死にすぎました。けれど忠通にとっては、その後の転変を知らずに済んで幸いだったのかもしれません。

蓮華王院完成後、長寛3年は永万元年と改元。二条帝は病に伏せり、6月25日、生後わずか七ヶ月の息子(六条帝)に譲位します。そして7月27日、二条帝は23歳の若さで逝去。基実が六条帝の摂政となり、清盛はその基実を支える舅でした。

二条帝葬送の際、南都興福寺と山門延暦寺の僧が争い、興福寺の末寺たる清水寺がとばっちりを受けて焼け落ちます。

興福寺は摂関家の寺でありましたが、忠通の死去により摂関家の勢威が落ちたと見て延暦寺の僧は興福寺を侮ったのです。后を出し、自家を里内裏とし、幼帝の摂政という地位を得ていても、その凋落の影はわかるものにはわかったと見えます。

そして9月、時忠が3年ぶりに都に戻ってきます。

都に戻った時忠はびっくりしました。2歳(数えで2歳なので、実際はもっと小さい赤ん坊です)の帝をいただく世に、東宮がないばかりか親王すらいないのです。もしも帝に何かあったらどうするのか? なぜ誰もその事態を考えないのか? 野心云々ではなく朝廷に連なるものとしてそれを憂えるのは当然ではないのか――。

しかし清盛は時忠の言を一蹴します。義兄の態度に「小心」だけを見て、時忠はいっそう清盛を侮るようになります。

東宮はおろか親王さえいないという事態を重く見たのは時忠だけではありませんでした。後白河院の第三皇子、以仁王が自身の判断で元服するのです。

仏門に入ることを定められていた以仁王。その胸には2歳の帝より15歳の我の方が御位にふさわしいという自負がきっとあったでしょう。であればこそ、出家を取りやめてのご元服。

けれど朝政に連なる者は誰も、以仁王の登場など望まない。以仁王を牽制するため、滋子の御子にやっと親王宣下が下ります。すでに御子は5歳になっていました。

翌永万2年正月、信西の妻朝子が死去。保元・平治の乱の渦中にあった人間がいよいよいなくなりました。また、滋子が後白河院のそばに上がった経緯を知る者も。

永万2年7月26日、摂政基実が24歳の若さで亡くなります。清盛の幸福で安寧な時期は短かった!

夫基実を失った盛子は十一歳――その幼い女が七歳の基通の継母となる。盛子の後見を勤め、「基通の養育に万全を尽す」という名目によって、清盛は摂関家の財産を手にすることが出来ると、邦綱は、押し殺した声で言うのである。 (P323)

清盛は、ついに「その先」へと一歩を勧めた。一切を瓦解させたと思われる摂政基実の死は、一転して清盛の前に、栄光の扉を開いた。清盛は、かつて夢にさえ見たことがない、禁断の扉の向こうへ足を踏み入れようとしていたのである。それが、清盛とその一門へ数限りない「悪」の称号をもたらし、滅亡へ導く道となることも知らず。 (P325)

忠通も基実も早く死にすぎたんだわなぁ。別に平氏が毒盛ったわけでもなかろうに…。

で、ここで清盛に「摂関家の財産を手に入れるチャンスでっせ」と囁くのが摂関家第一の家司と呼ばれた藤原邦綱。なんで摂関家の家司(執事みたいなもの?家政の事務を取り仕切る職だったらしい)が仕える家を裏切るような真似をするのか。

橋本さんによると、邦綱は清盛を慕っていたと。基実が死んで、次の摂関家の長は弟の基房になるんだろうけれども、その若い主人よりも清盛の方に「仕えるべき主」を見たと。

なぜ清盛を慕ったかと言えば、“邦綱と清盛は同じ「狗」だった。”

人に仕えることを性(さが)とする「狗」。平氏もまた「摂関家の走狗」と言われた存在だった。似たもの同士の慕わしさが、邦綱をして「清盛の利」を思わせた。

人になりたがる狗の望みを野望と言う。狗の野望は、人の画然たる制度の前で撥ねつけられていた。しかし、人になりたがらぬ狗が、人の社会に進んで入り込んだならば――。 (P335)

この辺の橋本さんの筆がまたたまらないのですよね~。心理分析というか、その時代に生きて二人を見ていたのかと思うような描写。引き込まれます。

そうして永万2年は仁安元年に改元(どんだけ改元するんですか、ホントに)。10月、滋子の子、憲仁親王は摂関家本邸たる東三条院に入り東宮となります。同時に清盛は内大臣に。

翌仁安2年正月、滋子は女御に、清盛は従一位の太政大臣になります。時に清盛50歳。

「すがめ」と侮られた武者の一族が臣下として最上位の位にまでのぼりつめた。

けれどわずか三ヶ月で清盛は太政大臣を辞し、福原に別邸を建てます。朝政に関心のない清盛。「ただ海が見たかった」と橋本さんは書きます。翌年には出家。そして六条帝から東宮への譲位が――。

貴族達が自滅するようにしてなくなっていた朝廷の「中心」。ぽっかり開いたその穴に、望むと望まざるとにかかわらず吸い寄せられてしまった清盛。

のぼりきったら、あとは――。

12巻に続きます。