『死ぬときはひとりぼっち』『黄泉からの旅人』に続くハーフボイルド三部作の最終篇。

読み終わりました。

前2作に比べるとずいぶん薄い(ページ数が少ない)ですし、ページに空白部分が多いです。会話が多いということもありますが、行数が減ってるんですよね。1ページの行数が2行少ない。行間が広いの。

なのであっという間に読了できるはずなのですが……ちょっと時間かかったな。分厚かった『黄泉からの旅人』の方がどんどんページを繰ってしまった。

1作目の舞台が1949年、2作目が1954年で、今作は1960年。「私」は38歳になり、作家として活躍しています。

1作目と2作目は作品世界同様5年の月日を経ての刊行でしたが、今作は2002年。2作目刊行から12年経っての出版。ブラッドベリ氏は82歳という計算です。

82歳でこんな作品書いちゃうのかぁ、と感心いたします。すごい作家さんですね、ホントに。

嵐の夜、前2作で強烈な印象を残した往年の名女優コンスタンス・ラティガンが「私」のもとを訪ねるところからお話が始まります。

コンスタンスの手には『死者の書』。ずいぶん昔に手放したはずの彼女自身の住所録。すでに亡くなった人も多い中、赤インクで名前を囲まれ十字架を添えられた人々が。

誰かがその『死者の書』を彼女の家の庭に置いていった。

「死に神に追いかけられている」と怖れるコンスタンス。

「死からはだれも逃れられないよ、コンスタンス」
「そんなこと言わないで! 私は死ぬためにここに来たんじゃない。永遠に生きたいからよ」
「そう祈るのはいいけど、現実にはありえない」
「あなたは永遠に生きるわ。本が残るもの!」
「たぶん40年くらいはね」
「40年なんて長すぎる。少し分けてよ」

p8

コンスタンスはほとんどパニック状態なんだけど、この会話、素敵だなぁ。今回はホントに洒落た会話が多いと思う。

そして「本が残る」=「永遠に生きる」という羨ましさ。コンスタンスだって女優なんだから、その「フィルム」は永遠にとまではいかなくても、数十年は残りそうなものだけれど。しかも、そのフィルムには彼女の「若さ」が閉じ込められている。若く美しいままの彼女がそこに……。

前作から6年経ったという設定だから、コンスタンスは62歳。

62歳でこんなエキセントリックなのか……。

前2作では魅力的だと思った彼女。だから『さよなら、コンスタンス』というタイトルが心配だった。死んだり、いなくなったりするんじゃないかと思って。

でも蓋を開けてみたら、すごいはた迷惑で。

確かに「いなくなる」のだ。「私」のもとに『死者の書』を持って駆け込み、助けを求めながら、朝目覚めるとコンスタンスは姿を消している。

「私」は彼女の行方を追わざるをえない。『死者の書』の謎を解き明かさないわけには。

十字架をつけられた名前の主。コンスタンスの最初の夫、占い師、コンスタンスの兄である牧師……。相棒クラムリーとともに彼らのもとをめぐる「私」。そして1作目の時のように、彼らは「私」の訪問後、みな息をすることをやめていく。

殺人?いや、事故死? それぞれのもとを訪ねていたらしいコンスタンスとの関係は?

原題は『LET’S ALL KILL CONSTANCE』。「さあ、すべてのコンスタンスを殺しましょう!」…いや、「ALL CONSTANCE」じゃないから「コンスタンスを完全に消しちゃおう」? とにかくコンスタンスは過去の自分を消したがっていて、「新しい自分」に生まれ変わりたがっていて。

だから彼女の過去に深い関わりのある実兄や元夫がとばっちりを受けてしまう。

「だれかがきみを許さなきゃいけない。だれかがコンスタンスでいる必要があるからね」 (p251)

というクライマックスシーン、そしてラストの終わり方もとても印象的なのだけど、でもちょっと、コンスタンスに同情できない……。

これだけ振り回されても彼女に手を差し伸べることのできる「私」に感心する。

「小説」として面白いとは思うけど、でも「えー、何この女」と。大の大人どころが62歳にもなってなんてはた迷惑なんだ。

老年にさしかかったからこそ、死の恐怖が切実だったり、「過去を清算したい」と思ったり、生まれ変わりたい反面「もう死んでしまおう」と思い詰めたりするのかもしれないけどなぁ。

年を取ったからって人間そうそう「枯れる」もんじゃないって思うけど。

うーん。コンスタンスの評価ガタ落ち。

一方今回も素敵なクラムリー。

「自分のどこがまずいのか知ってるか?」クラムリーは強い口調で言ってから、声を和らげた。「愛する価値のない人間を愛するところだよ」
「あんたも同じですよ、クラム」

p76

「最後にひとこと言って、それから口をつぐめ」
「あんたはやっぱり友達だ!」私は思わず叫んだ。
「あいにくな」クラムリーは言って、アクセルを踏んだ。

p99

ホントにいい相棒で、二人の会話には和まされます。

マッカーサー元帥の新聞記事を見たクラムリーはこんなことも言っていて。

「こいつもとんでもないやつだったが、日本の歴史上最高の天皇だったよ」 p89

1作目にも「天皇ヒロヒト」の名が載った新聞が「過去」の象徴のように出てきたんですよね。何十年も鳥かごに敷かれたままの古い新聞に、「ヒロヒト」の文字。

日本人としてはあまたある事件の中から「過去」を表現するものとして日本の天皇が選ばれるっていうのはなんともこう、気になります。アメリカの読者にとって、日本以外の読者にとって、この描写はどんなイメージをもたらすんだろうかと。

世界最高の盲人ヘンリーも健在。

「おふくろがいつか言ってた。強い腹を持ってるほうが、脳みそがふたつあるより役に立つんだと。たいていのやつは脳みそに頼りすぎなんだ――あばら骨の下にあるものに耳をかたむけるべきときにね」
(p150)

2作目で登場した映画監督フリッツ・ウォンも後半「私」に協力し、1作目2作目で電話の向こうだった「私」の妻(1作目では恋人)「ペグ」も最後に登場。

このペグ、今作では「マギー」となっているので、別人かと思いました。

2作目の最後があんなオチ(半裸のコンスタンスが「私」の耳を噛んでいるところへ旅先からペグが帰ってきて「その女何なの!?」とキレる)だったので、てっきり別れて別の女性と結婚したのかと。

2作目にマギーという名の映画編集者出てきてたし。

ところが解説を見てみると「ペグ」と「マギー」は同一人物、どちらも「マーガレット」の愛称だそうで。

なぜ。

なぜマーガレットがペグになるの!?(これはググると説明が出てきます。ネットって何でもあるわね)

日本人にはペグとマギーが同一人物なんてわからないので、ペグのまま訳すか、最初に訳注を入れるかしてほしかった。まぁ先に解説に目を通したから「再婚したわけじゃない」って理解した上で読んだけど、解説を後で読む人には「あれ?奥さんペグじゃなくなってる」だよ。

あと興味深かったのが「私」のこんな述懐。

なぜあなたにこんな話をしてしまうのか、という神父(コンスタンスの兄)に対し、

「ぼくの顔のせいです(中略)表情をとらえようとしても、みるみる変わっていくんです。少年イエスとチンギス・ハンが混じり合ってる。そのせいでまわりの人たちは無性に腹が立つらしいですよ」
神父「頭の弱い才人、といったところですかね」
「そうかもしれません。いじめっ子はぼくをひと目見るなり、めちゃめちゃに殴ったものですよ」

p84

「表情がとらえられない」から「いじめっ子には殴られ」、ある種の人々には「ぺらぺらと内面をさらけ出されてしまう」っていうの、わかる気がするんだけど、この「私」がブラッドベリ氏をモデルにした人物だということを考えると、ブラッドベリ氏もそんな人だったのかしら。

自分のことを「頭の弱い才人」と言ってしまえるんだね。

もちろん、「自身がモデル」だからと言って、作品もキャラクターもあくまでフィクションなんだから、切り離して考えるべきかもしれないけれど。