楽しい算数シリーズ第…3弾くらい?

文庫化されたので買ってみました。

「黄金比」……聞いたことはあるけど円周率ほどにはよく知らない(いや、円周率だってたいして知りませんが)。

線分ABを点Pで分ける時、APとBPの比がABとAP(分けられた線分の長い方)に等しい時、それを「黄金比」という。

合ってる?(←読んだのにわかってない) 詳しくはWikiで見てくださいね、はは。

えー、それでその比率φは1.06180339887…という無理数になって、円周率πと同じように延々と小数点以下が続く。

黄金比には色々と面白い性質があって、分母1がずーっと続く連分数が黄金比に対応するとかなんとか(←やっぱりわかってない)。

黄金比に対応する連分数は1だけで成り立っているので、とてもゆっくりと収束する。その意味で黄金比は、ほかのどんな無理数よりも分数で表すのが「難しい」――無理数のなかでも「一番無理」なのである。 (P138)

一番無理な無理数。

全然わかんないけど、なんかすごい。

前にも書いたと思うけど、そもそも「無理数」っていうのが不思議でたまらない。円周率なんてちゃんと「円」になってるのに、数字上はずーっと小数点以下が続いて「定まらない」みたいになってるのがもう。

現実に目にする円は「真円」じゃなくてどっか歪んでたりするからきっちりと数字が「終わる」のかな、とも思うんだけど、でもそういう話じゃないはずだよね、円周率。

φだって、線分は分けられているはずなのに…。計ると小数点以下が永遠に続いてしまう。

小数点以下が永遠に続くからといって「数値が不確定」というのとは違うんだろうけど、でもその、「永遠に続くが値としては確定している」という状況が理解できない。

(※あー、これって「無理数」に限らないんだっけ。3分の1は「有理数」だけど、小数にすると0.333……って永遠に3が続くんだよね。小数点以下がずっと続くことが「無理数」の定義じゃない…。うーむ)

ちょっとずつしか読めなかったこともあり、基礎的数学をかなり忘れてしまっていることもあり、付録の証明やら「???」のままのところも多く、頭に入らない部分もあったけど、フィボナッチ数列との関係とか、最後の「神は数学者なのか?」という章とか面白かった。

モナリザをはじめ色々な芸術作品に「黄金比が取り入れられている」という話に、著者が懐疑的なのも良かった。ダヴィンチは科学者でもあったから黄金比を「知ってて使った」ということも考えられるけど、「どこを測るか」を調整することでいくらでも黄金比を発見してしまえることを思えば、「すぐれた芸術作品にはすべて黄金比が用いられている」なんていうのはかなりの部分眉唾なんだろう。

この間の『頭がしびれるテレビ』では「ミロのヴィーナスにも黄金比!」と、既定の事実であるかのように言っていたし、有名なデザイナーさんか誰か(詳しい肩書きを覚えてない)が「黄金比なくして現代のデザインはありえません」みたいなことを言っていたけれど。

そもそも「黄金比を使うと美しくなる」は本当なのか。

この本の著者のマリオ・リヴィオさんは「美しい」という概念自体が曖昧なことを踏まえ、それについては留保している。

たとえば色々な長方形があった時に、「この中で一番美しいと思う長方形を選んでください」と言われて、果たしてみんながみんな「黄金方形(縦横の比が黄金比になっている長方形)」を選ぶのか。

実際たくさん長方形の載ったページがあるんだけど、私が選んだ(というかぱっと目についた)のは黄金方形よりももう少し縦横の差が大きいものでした。

黄金比φは1.618…で、「1.6」だとほぼ黄金比と見て差し支えないように思うけど、φが「一番無理な無理数」なのに比べ、「1.6」は10分の16、つまり5分の8という簡単な有理数。

比率「1.6」を美しく、心地よく感じるとして、それは「黄金比」を美しく感じていると言えるのかどうか。古代の美術品に「1.6」比率が出て来たとしても、それは意識的に「黄金比」を使ったと言っていいのか。意識的・無意識的を問わず、「それが美しいのは黄金比になっているからだ」と言っていいのか。

自然界に「黄金比」が顔を出すのは確かで、「神がそれを“美しい”と感じるからこそ自然は黄金比に満ちている」と言いたくなるのもわかるけど。

で、最後の「神は数学者なのか?」。黄金比に限らず、自然界の色々なことわりが「数学」で表せるのはなぜなのか。神が数学者だから?

この、「自然を説明するのに数学が有効すぎる」という謎に対してはおおむね二つの考え方があるらしい。一つは「修正プラトン主義」と呼ばれるもの。

この「修正プラトン主義」では、物理学の法則が数式で表せ、宇宙の構造がフラクタルであり、銀河が対数らせんの形をとる、などといったことは皆、数学が「宇宙の言語」だからであると主張する。 (P373)

一方、もう一つの考え方では、

数学は人間の脳の外には存在しない。われわれの知る数学は、人間の発明品にすぎず、宇宙のどこかほかの場所の知的文明は、まるっきり違う概念を生み出しているのかもしれないわけである。  (P378)

うん、どちらかというと、私も後者な感じ。時々SF小説に登場するように、人間とはまったく知覚の方法が違う知的生命体にはこの宇宙がまったく別のものとして認識されているかもしれないわけで、私たちが手にしている「数学」が宇宙をよく説明するからと言って、それだけが万能の尺度ではない、“神が「数学」を用いて世界を創造した”などとは言えないと思う。

リヴィオさんもこう述べている。

われわれの手にしている数学は、ある意味で宇宙の――人間が認識する宇宙の――言語と言える。どこか別の場所の知的文明は、その知覚のメカニズムがわれわれのものと大きく異なるのであれば、まったく違う規則の一群を考案している可能性がある。 (P388)

第8章「天空からタイルまで」のフラクタルの話、そして第9章「神は数学者なのか?」は大変興味深かった。

検索したらリヴィオさん、そのものずばり『神は数学者か?』という本を上梓してらっしゃる!

日本語訳のタイトルがそうなってるだけで、必ずしも内容は「それ」ではないのかもしれないけど、でも面白そう。ぜひ読んでみたい。単行本が出てまだ半年だから、文庫になるのはずうっと先でしょうね。図書館で借りよう。
(読みました。感想こちら

あともう1冊、『なぜこの方程式は解けないか?』。



黄金比以上に内容が難しそうですが、これも挑戦してみたいな。