(「その1:頼長は死んだ後も無惨」はこちら

はい、続きです。信西の話です。

信西。出家前の名は高階通憲(たかしなのみちのり)。もともとは藤原通憲。父親を早くに亡くした信西は、高階の家の養子になったのですね。

信西の生家はもともと「学の家」だったらしく、父の藤原実兼という人は大変な秀才で、かの大江匡房に将来を嘱望される優秀な文章生だったそうな。

がしかし、「将来を嘱望される文章生」という言い方は実は「変」なのだ。

文章生とは、先の望めぬものであり、将来を望めぬ家の子がなるものだからである。それを知ればこそ、受領の息子達は、さっさと学を放棄する。「学の家」とはすなわち、不遇に埋もれることを甘受する家筋なのである。 (P124)

この時代の「出世」というのは全部「生まれた家」で決まっていますから、いい家に生まれた子はほんの15歳くらいでずいぶんな官位をもらってどんどん出世していきます。バカでも、たいして仕事ができなくても、そんなことはたぶんほとんど関係ありません。

バカで仕事ができない殿上人の代わりに実務をこなすのが下級貴族で、だからここに「学の必要」はあるけど、がんばって勉強して「能吏」というようなものになったとしても、一定以上の位には上れません。

だからさっさと受領の子ども達は学問ではなく「金儲け」に励むようになる。学問なんか修めたって、賢くたって、たいした見返りはないのです。

匡房の一生は、学を崇めながら、しかしその実は等閑にする、人の世の矛盾との戦いだった。 (P126)

なんというか、身につまされるお話です。子ども達に勉強しろ勉強しろと言いながら、少しでも「いい学校」に入れとその尻を叩きながら、その実親や世間が望んでいるのは何なのか。子どもが「学を修める」ことでは、たぶんないですよね。

「学を崇めながら、その実等閑にする」……これって日本の伝統なのかなぁ。よその国でもそうなのかしら。

大江匡房に将来を嘱望された学才の人、藤原実兼は28歳の若さで世を去ります。その遺児通憲(後の信西)はわずか7歳でした。

5歳で学の道に入り、父の血に恥じぬ秀才ぶりを早くも顕していた信西を引き取ったのは高階の男。

今の高階の一族は、財をもって仕える「受領の家」なのである。その嗣子が、学の知識によって人に賞められれば、鼻も高い。しかし、それまでのことである。学への精進と身の栄達は、高階の家で一つにはならない。そして、いかなる家でも、これは一つにはならない。 (P138)

「学の家」の嫡男ではなく「受領の家」の嫡男となった信西に、その「学才」を活かす道は開かれていませんでした。

信西は、「栄達」など望まない。彼が望むことは、彼の有する学才が明確に顕現されることだけなのである。しかし人の世は、それをこそ「栄達」と言う。「栄達」がなければ、その顕現は果たされない。信西に、その「栄達」はないのである。 (P148)

どんな素晴らしい才能を持っていたところで、しかるべき「家格」を持たない者はその才を発揮する場がない。せっかくの知識もアイディアも、政治の現場で生きることはなく、むなしく朽ちていくだけ。

鬱々としたであろう信西の胸の裡、わかる気がします。頭なんかよくても、学識なんかあっても、何の役に立つのでしょう。世の中を動かすのは、「学」ではない…。

そうして高階通憲は39歳で世を捨てるのです。「出家」して「家格」という檻から抜け出すことで、彼は自身の才を活かそうとした。「家格による序列」という「現世」の外に身を置くことで、かえって自由に「現世」に関わろうと。

出家者なればこそ、同じく出家して法皇となっていた鳥羽院のそばに親しく仕えるということも実現した。近衛帝崩御の折り、鳥羽院に「次の天皇を誰にするか」と相談されるほどの地位を手に入れた。

保元の乱で時の関白藤原忠通を制し、まんまと摂関家の威勢を殺ぐやり方は、まことあっぱれな「学才」でした。知略によって世の趨勢をひっくり返す。その「頭脳」によって実権を手にする。

その時、信西は52歳。

嫡男の俊憲は35歳で、父の血を受け継いで大変な「能吏」として活躍していました。殿上人にとって「能吏」などというものは侮蔑の対象でしかないようなものですが(きっと「おまえ何真面目に働いてんの?」「しょーがねーよなー、貧乏人は働くしかねーもんなー」というノリ)、自らは果たすことのかなわなかった「朝廷における学の顕現」を果たす俊憲は、信西にとって自慢の、理想の息子でした。

ところで。

52歳の信西に35歳の息子。

ええ、嫡男俊憲は信西17歳の子です。

16歳で養家である高階一族の娘を妻とした信西は17歳で嫡男を得、21歳ですでに5人の子持ちだったそうな。ひょえー、すごいなー、早いなー。

後白河帝の乳母であった朝子との間にも子どもをもうけていて、今Wiki見たら「生母不明」のところにも延々と子どもの名前が載っていましたが……事実なのかな。まぁあの時代って、途中で死んでしまう子どもも多かったろうし、「これぐらい普通」なんでしょうねぇ……。

えー、さてそれで。

力ある上皇もおらず、摂関家も権威を落とし、後白河帝は今様狂いの「暗愚の王」。実質信西が朝廷の「ナンバーワン」になったわけですが、残念、長くは続きません。

31歳の後白河帝は藤原信頼という25歳の男に入れあげ、なんだかんだ理屈をつけては彼を出世させます。必ず信西の息子達の昇進とセットにして。

周りの目には信西が「勝手気ままに息子を昇進させている」と映っていたでしょうが、信西自身は嫡男俊憲が「能吏」であることを誇りと思うような「学の男」。むしろ後白河帝が「勝手気ままに信頼を昇進させるために信西の息子達をダシに」していた。

信西は、人の徳も、性の善も悪も、人の内に潜む欲望も、深く顧みなかった。重んじらるべきは、ただ「法の正しさ」――人のすべては、その内に収まるものと把握していた。それこそが、信西の目指した「理想の達成」なのである。 (P159)

施政の代行者は法を求め、お主上は人をお求めになる。法は、求められた「人」を逐わんとして、かえってその人に背かれた。平治の乱とは、すなわちこれである。(中略)「法の正しさ」を言い立てる施政者がいて、人はまだ、「法」よりも「人」を求めることを真とした。 (P160)

実権を握ったと言っても、やはり信西は出家者だし、もとの生まれだって高くない。後白河帝あればこそ、帝の側近であればこそ、信西は力をふるうことができる。

でも帝は信西を――信西の求めるような「法による統治」など求めなかった。

保元の乱の2年後、後白河帝は譲位したいと言い出します。美福門院得子がそれをせっついていたこともありました。得子の猶子となっていた後白河帝の子、守仁王。その子に位を譲るために、後白河帝は「つなぎ役」として即位したものと得子は思っていた。

しかし。

お主上は、お主上であられることを煩わしく思し召されるようになった。美福門院の言とは別に、お主上はご自身で、御譲位をお選びになられたのである。 (P166)

お主上のお望みあられたことは「御譲位」ではなく、信西の息子達の昇進でもなく、さりげなく中に挟まれた、信頼の権中納言昇進であられたのである。 (P170)

「お主上なんてやってんのめんどくせー」及び、「もう交換条件に出せるものなくなっちゃったから御位差し出すわ。だから信頼昇進させてもいいでしょ。ね?」という。

後に、鎌倉の頼朝をして「日本国第一の大天狗」と嘆声せしめることとなる後白河院の人心攪乱のご手法は、既にこの時ご歴然とされていたのである。 (P210)

かくて後白河帝は後白河院となり、守仁親王が即位して二条天皇の世となります。

二条帝は15歳。後白河17歳の時の子どもであり、生母は彼を産んですぐに死去。美福門院の猶子となったこともあり、父である後白河帝とは疎遠に育ったらしい。そもそも後白河は子を慈しむような人でもありません。

二条帝の即位を機に、関白忠通は職を辞し、その座を嫡男基実に譲ります。15歳の天皇に、16歳の関白。何やらおままごとのような朝廷のトップ二人であるけれど、ともかく世は動いた。

そして忠通は嫡男基実を信頼の妹の婿にするのです。

後白河院のご寵愛深き男、御世にもっとも輝ける寵臣信頼の妹と若き関白との結婚。後白河院はもちろんその縁組を喜び、信頼とて摂関家との縁組を厭うはずがない。「まるで入内のそれのよう」と噂されるほどの列を従えて、信頼の妹は「関白の北の方」となった。

摂関家はやはり摂関家でした。信西がどう思っていようと、そこに「実質」があろうとなかろうと、世の人々はその「家格」をやはり特別のものと見ていました。

関白を無用の存在とするもの――それが信西である。信西が御世を牛耳る限り、関白家の存在理由はない。しかし、それを人が喜ぶのだろうか。(中略)人は、輝きを求める。輝ける幻。実質など求めない。人は、我が身のありようを肯定してくれる、「人の世の輝き」を求める。 (P223)

信西のような「力」を、人は求めない。

“人”はというか、“日本人”は、なのかなぁ。権威をくつがえさない。むしろ我が身の安泰を保証してくれる権威の健在を求める……。

しかし、信西は関知しない。縁組とは「私の営み」であり、信西の従うものは、ただ御世を貫く「法」ばかりだった。 (P226)

頼長も信西も、「世の中」を無視して「理想」を求め、そして「世の中」に敗れるんだなぁ。げにおそろしきは「世の中」であることよ。

「学」をもって、また「法」をもって世を治めようとした信西は早すぎたのでしょうか。もしかして日本では永遠に、彼のような人間は早すぎるんでしょうか。

人の世は、一体何によって治められるべきなのか。

「私の営み」として信西が関知しない間に、人々は勝手に縁を結び、それをこそ「政治」としていく。

いや、信西とて無視してばかりはいられませんでした。信西の息子達を婿に取りたい、という者もいるのです。

まずはかの源義朝が「三男是憲殿に我が娘を」と申し出る。

もちろん信西は義朝のような「戦バカ」が大嫌いなんだけど、都に知己の少ない義朝は信西を頼り、何かと妻との縁を言い立てる。

義朝の妻の一人由良姫(頼朝の生母で、大河では田中麗奈が演じています)の祖父は、なんと信西の父実兼の伯父にあたるのですよね。つまり信西の父と由良姫の父はえーっと……わかんないや(笑)。

ともかくも由良姫と信西の間には血縁があり、つまり信西と源頼朝も遠い親戚、ということ。

でもとにかく信西は義朝なんか嫌いだし、義朝が差し出そうという娘が「遊女宿を営む遊女」の腹から生まれた娘、と聞いて激昂。「そんなもん嫁にできるか!うちは学の家なんだぞっ!!!」

気持ちはわかります。

信西は、なによりも無能を悪む。無知を悪む。無知と無能を明らさまにしたまま、人の世に栄達を得る者が許せない――そう思う信西の前に、信頼がいた。 (P247)

信頼って、「大兵肥満の大男」だったらしいんですよね。その重さで馬が喘ぐほど、とかって出てくるんですけど、後白河の趣味よくわからない…。まぁ、ともかくも、人が人に求めるものは残念ながら「有能」や「知性」、「学」ではない、という。

無能な男達は衆を恃む。それを嘲笑って、秀でた男達は孤高を守る。その美意識の真を知って、しかし、三条東殿の御前を退出する信西は、初めて自身の孤立無援を思った。 (P248)

哀しいなぁ、信西……。

で。

信西の息子を婿に、と申し出たのはバカな関東武者義朝ばかりではありません。都の武者たる清盛も、縁組を申し込んできました。

信西の息子成憲(25歳)に8歳の娘を贈ろうと申し出る清盛。25歳に8歳?と驚くなかれ、その直後清盛は5歳の娘(後の建礼門院)と信頼の5歳の息子の縁組まで調えるのです。

25歳と8歳よりかは、5歳同士の方が「お似合い」の縁組ではありますが。

信頼のわずか5歳の息子を「婿に取る」ため、その布陣として清盛は、信西の息子との縁組を考えたのです。「策謀家」としての顔を顕しだす清盛。

「それをせんがため、彼奴(きゃつ)はあの縁組を持ち出したか」と、信西は成憲の一件を振り返った。信西が清盛の悪辣を賞したのは、そのためである。瀬戸内の海賊を退治した一介の武人は、真実都にふさわしい、「策謀の男」となっていた。 (P260)

清盛は「武将」ではないのです。関東武者の性格を歴然とさせる義朝とは違い、あくまで都の貴族の一員なのです。

清盛という「武の家」の者が成り上がったことは確かに「鎌倉幕府」を生む要因となったのかもしれませんが、しかし清盛が「武家政権」を目指していたのかといえばたぶんそうではない。結果的に都の貴族は「武者の成り上がり」を認めず排除したし、だからこそ頼朝も都ではなく鎌倉に幕府を開くことになる。

なかなか既存のシステム・権威を覆さないのが“日本”ですねぇ。

伊勢の平氏は、人に蔑まれる一族でしかなかった。にもかかわらず、父の忠盛は我が子を思った。自身の功を我が子の賞へ譲り代え、「故院の御落胤」である我が子を思った。その父に思われて、しかし清盛は、人に蔑まれる一族の子でしかなかった。清盛の苦難は、「伊勢の平氏の嫡男」でしかない我が身を、都人士に受け入れさせるそのことに尽きた。 (P293)

清盛は、武者であることを誇る武者ではなかった。我が朝に初の、「武者であることを恥じる武者」だった。 (P294)

都人士は、決して「武」を好まない。都に生まれ育った清盛は、そのことを知る都人士の一人だった。 (P294)

……大河ドラマがなんか迷走しているように見えるのは、この辺のズレもあるのかもしれませんね。義朝と清盛との対比は「東国の武士」と「都で貴族達の中に生きなければならない武士」との対比になると思うんだけど、大河は清盛の方も「やがて武士の世を開くもの」として描きたいから清盛の立ち位置が定まらなくて、「苦労人のしっかり者」と「中二病のぼんぼん」の対比にしか見えなくなってる……。

この先清盛が出世して朝廷で重きを置くようになってくればまた描き方も変わってくるのかもしれないけど……。

さて。

信西は後白河院を諫めようとして「安禄山絵巻」を調えます。しかし院はまるで意に介さず、安禄山によそえられた信頼の心ばかり騒がせることに。「策士、策に溺れる」の言葉通り、いらぬことをして信西は信頼に討たれるはめになるのです。

信西バカだなぁ。でもそんなことがなくても、信頼が実力行使に及ばなかったとしても、やっぱり信西は「世の中」という大勢には勝てなかったのでしょう。彼のやり方を理解し賞賛する味方がいない以上、どのみち彼の天下は長くは続かなかったのでは。

信頼は信西を「武力」で逐おうとします。信西に縁組を断られた義朝が信頼に接近していましたし、信頼は後白河院の寵を一身に受ける身、「何かと目障りな信西を潰して何が悪い」という勢い。

ただ一つ、信頼と彼に味方する源師仲にとって気になるのは平清盛の動向でした。いかな義朝といえど、清盛率いる平氏の武者と合戦ということになれば何かと面倒。

というわけで信頼と師仲は清盛が都を留守にした隙を狙って事を起こすのですが。

なぜ清盛が都から離れたかといえば。

信西に付くことが「利」となるのか。信頼に付くことが「利」を生むのか。どちらかに付くという選択肢は、果たして意味があるのか。考えて、清盛にその答は出なかった。であればこそ清盛は、その決断をした。逃げたのである。 (P296)

うん、まぁ、賢いといえば賢い。

信頼は後白河院と信西がいる三条東御所に夜討ちをかけます。院をよそへ遷し、御所に火をかけるのです。こんなこと、「何をしても院は自分を怒らない」という自信がなければできませんよねぇ。

信西の屋敷も火をかけられます。院の乳母である妻朝子は院の姉、上西門院の着物の裾に隠れてひとまず難を逃れましたが信西は果たして……。

火を噴き燃え落ちているのは、三条東殿だけではない。摂関家の栄華を実現させた、王朝という時代が燃え落ちているのである。 (P314)

都のただ中で「合戦」というものが起こりえてしまった保元の乱。そして、たとえどのような理由があろうと、上皇御所に火をかけるなどという暴挙が起こりえた平治の乱。

王朝という時代に火をかけたのは、果たして武者だったのでしょうか――。

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