(7巻の記事はこちら

いよいよ「保元の乱」です。

8巻最初の系図には、主要登場人物の「保元の乱時の年齢」が記されています。それによると、

崇徳院38歳、美福門院40歳、後白河30歳、頼長37歳、清盛39歳、義朝34歳。

義朝って、清盛より5つも年下なのですねぇ。大河ドラマ見てるとどう見ても義朝の方がしっかりしてて年上なんですけど。

美福門院が鳥羽院のもとに上がったのが17歳ということを考えると、大河で義朝が「このバカ御曹司!」と清盛を怒っていた時って、清盛は16歳で義朝はたったの11歳ってことに…。

この間清盛が明子と結婚しましたが、嫡男重盛は清盛20歳の時の子ども(保元の乱の時、重盛は19歳)ということなので、やはり「光らない君」の回でやっと清盛は19歳ぐらい。

清盛がまだ10代なのはいいとして、義朝がやっと中学生ぐらいっていうのは「ええっ!?」だよね。

まぁドラマはあくまでドラマで、「この物語はフィクションです」だから、史実通りの年齢設定じゃなくてもいいわけですが。

で、さて。

「保元の乱」が起こる前、摂関家の左大臣藤原頼長はすでに「悪左府」と呼ばれる存在でした。

なにゆえに彼は気ばかりを昂ぶらせ、「悪左府」と人に恐れられるようなことばかりをしたのか。好んでそれをするのではない。やむことなく、それを仕出来してしまうのである。(中略)左大臣の官に就き、内覧の任を賜わり、にもかかわらず頼長は、御世を動かす政治家ではなかった。摂関家の正しかるべきありようばかりを思う、時代遅れの思想家だった。 (P23)

「正しさ」ばかりを追い求めると人は歪む、の典型でもありましょうか。藤原氏の長者である自身がなにゆえ関白の座にあらぬのか、兄忠通はいつになったらその座を明け渡すのか、と思う頼長は「左大臣を辞める」ということまでしてしまいます。

自身が左大臣の職を投げ出せば、朝廷は困惑して、関白の官を提示するであろうと思い込んだのである。(中略)事は既に、妄想の域である。 (P29)

いやもうホントにね。橋本さんの筆も容赦がないったら。

摂関家の親子・兄弟がそんな馬鹿げた争いをしてるうち、近衛帝が17歳の若さで崩御。

近衛帝は、鳥羽院と美福門院の間に生まれた皇子でした。そして、17歳の近衛帝にまだ子はいなかった。

近衛帝の前の天皇である崇徳院の皇子、重仁親王は17歳。崇徳院は自分の子が次の天皇になることを疑ってはいませんでした。しかしもちろん美福門院にも忠通にもそんなつもりはありません。

重仁親王は美福門院の猶子となっていましたが、美福門院には今一人猶子がいました。鳥羽院と待賢門院璋子の間に生まれた皇子、雅仁親王の子である守仁王です。忠通と美福門院は14歳の守仁王を帝位に、と画策します。

しかし鳥羽院が異を唱える。「親王である父をさしおき、子を帝位にとは順が逆」。

実のところ鳥羽院は、自身と美福門院の間に生まれた内親王を御位に、と考えていたのです。崇徳院が自身の胤でないと知っている鳥羽院もまた、崇徳院の子を帝位につけようとは考えない。身分低い女をその愛で女院にまでのぼせた鳥羽院は、その女との間にできたもう一人の子、内親王を御位につけたかった。

しかし内親王の即位が混乱を招くことは孝謙女帝の例で明らか。

鳥羽院から相談を受けた信西(大河ドラマでは阿部サダヲさん)は「雅仁親王こそ」と答えます。雅仁親王を育てた乳母は、他ならぬ信西の妻でした。

能力はあっても生まれが低く、出世の道を閉ざされていた信西。ここへ来て一気に「天皇の乳母の夫」、つまりは「天皇の近臣」という地位を手に入れるのです。

忠通や美福門院が何をどう言おうと、鳥羽院の思し召しにはかないません。近衛帝の後を継いだのは雅仁親王。つまり、後白河天皇の誕生です。

そして後白河帝即位の翌年、鳥羽院も54歳で崩御。「死後、我が顔を崇徳院に見せるな」と言い残して。白河院崩御から27年の月日が流れてなお、鳥羽院にとって崇徳院は「白河院の亡霊」だったのですね。白河院が自身におしつけた「子ではない子」という悪夢。

自身の出生の秘密を知らず、鳥羽院を「父」として慕う崇徳院は、なぜ父の死に顔を見ることが出来ないのか、なぜそばに付き従うことができないのか、わけがわからない。嗚呼、可哀想な崇徳……。

後の世の者達は、新院のご謀反によって保元の乱は惹き起こされたものと、わきまえ解する。しかしそれは誤りである。田中殿に籠られた新院は、初七日の間、父院のご冥福をひたすらに祈られるばかりであられた。事を惹き起こしたのは、後白河帝を擁する時の関白、藤原忠通なのである。 (P67)

保元の乱直前、頼長は左大臣に復していました。しかし頼長にとって「関白」以外はすべて無意味。しかも崩御前の鳥羽院から面会を拒絶されて、もう世の中なんてどーでもいいや、という状態。

頼長の思うことは、既存の体制の容認であり、そこにおける自身の「本来」の確保ばかりだった。頼長の中には、世を否定する心がない。その御世において、頼長ほど「謀反」から遠くある者もなかった。 (P73)

が、しかし。兄の忠通にとって、弟の頼長は邪魔でしかありませんでした。

御世の関白となりながら、藤原氏の長者の座を逐われた男――藤原忠通が復讐を遂げる日は、ようやくにして訪れたのである。 (P74)

頼長がバカだったのもいけないけど、忠通もねぇ…賢くはなかったよね……。実の弟や父と争って、結局藤原氏の地位を落としてしまうんだから。

頼長を排除し、「氏の長者」の座を取り戻したいと願う忠通は、「謀反」を捏造します。

いかなる嫌疑があるのか。御世の関白は、実の父と弟を、主上調伏の罪によって告発したのである。 (P81)

手始めに忠通は東三条院(藤原氏の長者の財産)を接収します。これを命じられたのは3年前に東国から京へ戻ってきていた源義朝。義朝の父、源為義(大河ドラマでは小日向文世)は摂関家に――つまりは忠通の父・忠実に仕えていました。で、そのまま為義は頼長に仕える身となっていた一方、義朝は忠通の方に。

頼長は「悪左府」と呼ばれ、時の関白はすでに忠通ですから、「東国から戻ってきた嫡男は今の関白に」は賢明な配慮です。結果として保元の乱で親子が戦うことになってしまいますが。

頼長父子に「謀反」の疑いがかけられたことを知って、自身も危ういと感じる崇徳院。頼長父子が謀反を言い立てられるのであれば、崇徳院にも言い立てられる芽はいくらでもある。何しろ、新帝擁立に当たって崇徳院の皇子重仁親王の存在は無視されたのです。美福門院と忠通が崇徳院をないがしろにしているのは疑いのない事実。

「ここにいては我が身も」と思って崇徳院は居場所を移すんだけれども、そんなことしたらかえってヤバいよねぇ。やましいことがあるから逃げたんだと思われる。でも崇徳院のそばに、賢明な策を授けてくれるような、頼れる側近はいない。心を許し、その忠言に耳を貸そうと崇徳院が思うほどの相手は。嗚呼、返す返すも可哀想な崇徳…。

崇徳院は警護のために為義を呼び寄せます。けれども為義の態度は煮え切らない。そりゃそうでしょう、我が子義朝は忠通方だし、すでに家督を譲ったも同然の61歳、今さら面倒ごとに巻き込まれたくはない。そこで崇徳院方は為義の直接の主人である頼長に使いをやるのですが。

これがまた!

謀反の疑いをかけられている頼長を呼び寄せたりしたらどんどん「謀反」が近づいてきちゃうじゃないのぉ。

しかも当然のごとく頼長はバカなので、崇徳院からの使いに「院は世を正される(御位を取り戻す)おつもり」と勝手に思い込んじゃう。敵の思うツボやんかぁ。79歳の忠実がさらにバカで、わざわざ南都興福寺の僧兵を呼び寄せようとする。おいおい、それ「謀反の疑い」を完全に「謀反」にしちゃってるやん!

ご危難を思し召され、それを避けんと思し召されて、新院のご危難は、ますます色濃くなられたのである。 (P129)

なんだかなぁ。誰か崇徳院を支える賢い臣が一人いれば事態は違ったものになっていたろうに。崇徳院方が頼長を捕らえて差し出すとかしていればそれで「危難」は去っていたんじゃないの…?

頼長が参上を果たして、新院のご危難は、「世の歪み」となり変わった。頼長が「世の歪み」を口にしたその時から、新院のご危難は、新院を超え奉った「御世の危難」へと移り変わっていた。これなくんば、乱世の到来とてもないままにあったろう。しかし、その錯綜に気づく者は、新院のおそばに一人とてなかった。 (P130)

嗚呼、くらくら。

やっぱり頼長がバカだったのが一番の問題か…。

「主上に対する謀反」が騒がれる中、当の「主上」、後白河帝のそばにも信西しかいなかったりする。関白も大臣も、誰もお主上のもとに参内しない。

「謀反」の噂の中で、高松殿内裏にましまされるお主上をお守りするのは信西ただ一人である。「それであっても大事ない」と誰も彼もが思うのは、そもまず、朝廷に列する大臣、公卿が、「謀反」なるものを「ありえない」と思うからである。信西とても、それをよく知っている。「謀反の噂」を殊更にするのは関白であり、「謀反」とは、摂関家の兄弟喧嘩であり、父子喧嘩でしかない。 (P122)

ええ、まぁそうなんですけど。

やめときゃいいのにお主上に向かって「譲位」を迫る文を出す頼長。もちろん忠通はそんなもの一蹴。崇徳院方の警護を任された為義は「万一合戦になれば」と進言するけれども、頼長はもちろん合戦など考えない。忠通も考えない。都の貴族に「合戦」などという血なまぐさいことは想像の外。「謀反」と言い立てられたものはさっさと身を引けばいい。

だから、信西はこっそり頼長暗殺を命じてもいた。謀反の首魁が死んでしまえば、それで丸く収まる。

しかし暗殺はできず、その気になれば「合戦」ができてしまう武者が双方に控える中、事態は膠着状態。

戦えば負ける。負けぬ方法はただ一つ。それは、戦いとなるべき途を回避することだけなのである。 (P141)

息子義朝の武勇を知る為義はそう思い、敵である関白はなかなか「戦え!」の声を発しない。

合戦がいやなのではない。その以前に、関白忠通は、自身の理解を超えたことに対するのがいやなのである。 (P152)

さて――。

長くなったので続きます