(5巻までの振り返りはこちら、6巻の感想はこちら

大河ドラマ『平清盛』で先日登場した藤原得子(なりこ)――後の美福門院――と、男色関係を赤裸々に綴った日記で有名な藤原頼長をメインとした巻です。

「目の上のたんこぶ」だった白河院が亡くなった後、鳥羽院は「あー、やっと俺の時代が来た!」とばかりに活動し始めます。白河院の怒りを買って宇治に蟄居していた先の関白藤原忠実を呼び戻し、その娘である勲子を自分のそばへ上げる。

そもそも11年前に忠実が白河院を怒らせた原因がこの「勲子の入内」。「俺に差し出せ」と言った時には断った娘を鳥羽院(当時はまだ鳥羽帝かな?)のもとへ差し出すなんて何考えてんだ、鳥羽院のもとには俺の可愛い璋子がいるというのに!

璋子は「白河院の養女」だけれども、実の父親の身分は低い。そこへ摂関家の由緒正しい娘が来たら、璋子の立場は危うくなる。摂関家のみならず、他の家の娘だって後宮に上げることは許さん、俺の璋子一人で何が不服だ! というわけで、本来なら「女御更衣あまたさぶらいたる」はずの後宮に、女はいない。祖父白河院の愛妾と知りながら、鳥羽院は彼女で満足するほかなかったのです。

実のところ鳥羽院と璋子の間には崇徳帝以外にも4人も皇子がいて、他にたぶん皇女もいる。なんだ、仲は良かったの?と思うけれど、鳥羽院にしてみれば、「あんな年寄り(白河院)に負けるものか!」というところだったのでしょう。まぁ、他に女はいないわけですし。

璋子と鳥羽院の皇子の一人が、のちの後白河天皇です。

で、そうやって鳥羽院を抑えつけていた白河院が死んで、忠実の娘勲子はついに鳥羽院のもとへ上がる。最初に求められてから早や11年、すでに37歳になっていた勲子。彼女の美しさがどうこうということでなく、子は産んでも白河院しか愛していなかった「中宮・待賢門院」へのあてつけだったのですね。何しろ勲子は后を出す家筋、「摂関家」の娘。一方、白河院という後ろ盾をなくした璋子(待賢門院)は「下級貴族の娘」に過ぎない。

しかし璋子の中身は「女王様」です。帝王白河院に「娘」として「愛人」として惜しみない愛情を注がれ育った彼女は、人の心など解さない。

しかし西行は、その高貴なる女性が和歌の才を欠くことを知らなかった。知るよしもなかった。待賢門院は、「人と心を通わせる必然」を理解する要のなかった女なのである。 (P38)

大河ドラマでは藤木直人氏が演じておりますね、西行。

待賢門院は、鳥羽院へ背を向け奉った。鳥羽院を「敵」と断じ奉って、待賢門院は、鳥羽院のお意(こころ)によって動く御世の政事(まつりごと)そのものを「敵」としたのである。人ではなく、世のありよう――政事のありようすべてを敵に回して、人たるものの勝ちようはない。 (P99)

気ままな「女王様」待賢門院璋子は鳥羽院に許してもらおう、尽くしてよりを戻そう、などとはまったく思わず、結果、次第に忘れられていきます。

院の御所に上がった忠実の娘勲子は泰子と名を改め、後に高陽院(かやのいん)となります。橋下さんの筆によると彼女は男嫌いだったそうで、アラフォーという年齢ともあいまって鳥羽院の方もその後はほったらかしだったとか。まぁ璋子へ嫌がらせができればそれでよかったわけなので。

璋子も高陽院もどーでもよくなった鳥羽院のご寵の向かう先は。

女という複雑によってご翻弄をお受けになられておいでだった鳥羽院のご寵は、男という明快へ移ったのである。 (P63)

ははは。

さすが男色の時代でございます。

その、ご寵の移った先というのが藤原家成。大河では佐藤二朗氏が演じておられます。え、あの人が三上博史と!?とつい想像してしまいますが(笑)、鳥羽院28歳、家成24歳の時だそうな。

女という複雑より男という明快を選んで数年、32歳となった鳥羽院の前に六条流藤原の娘、得子(なりこ)が現れます。得子は家成の従姉妹です。

その時得子はまだ17歳。鳥羽院にとっては初めての若い娘です。璋子が鳥羽院のもとに上がったのも17歳だったのですが、鳥羽院にとっては「一つ年上の女」で、しかも17歳ですでに「もう何年も白河院の愛人」なんですから、「初々しい乙女」などとは口が裂けても言えません。

なので、かどうかは知りませんが、鳥羽院は得子を深く愛すようになる。

璋子の息子である崇徳帝にとっては「なぜ母上というものがありながら」なのですが、しゃーないよねー、母上は「父上というものがありながら」白河院といちゃいちゃしてた女なんだからさー。

崇徳帝はなにもご承知ではない。しかし、実の父と実の母の君がお心を通わされるところを間近にご覧じられながらお育ちになられた帝など、崇徳帝の他にはただのお一方もおいでにはならないのである。 (P104)

この時代子どもは母方で育てられるので、璋子の「実家」=白河院の御所、ということになって、崇徳帝は実の父・白河院と母・璋子がそれはそれは仲むつまじくあるのを見て育ち、その二人からたっぷり愛されて育ったわけです。表向き白河院は崇徳帝の曾祖父で、曾祖父がひ孫を可愛がっても全然おかしくないし、璋子と白河院は「養父とその娘」で親子関係(こっちから見ると白河院は崇徳帝の祖父になる)、これまた仲が良くて不思議はない。

しかし。

崇徳帝が自身の出生の秘密について「何も知らない」なんてことがあり得るのかなぁ。千年経った私たちが「それを知っている」ということは当時有名で誰かが書き残したからでしょう??? 少なくとも崇徳帝の周り、璋子や白河院の周りに侍る人間達は知っていたはずで…。幼児の頃ならともかく、十代過ぎればうすうす感づいてしまうんじゃ。

知ったら知ったでまた別の苦しみも増えるのだろうけれどねぇ。「父」鳥羽院に愛されない苦しみ、愛されないのも道理の存在である苦しみ……。

鳥羽院の寵を得た得子はまず娘を産む。その娘は皇后勲子(泰子)の養女となって内親王宣下を受ける。(得子は身分が低いので、得子の子のままだと内親王として認めてもらえないらしい。天皇の子なら誰でも尊ばれるというわけではないのだ) 内親王の母にふさわしい処遇を、ということで得子は従三位に。

そして得子23歳、ついに男御子を出産。未だ子のない崇徳帝(21歳)の養子になった御子は東宮となり、その母得子は「女御」の地位を獲得。時に鳥羽院37歳、忠実62歳、忠実の次子である頼長は20歳。

鳥羽院が御世を御掌握になるためには、忠通の力を奪わなければならない。そのためには、御子を一時的にお授けになり、後になって忠実の子頼長をお用いになる。 (P120)

えーっと、崇徳帝の関白は藤原忠実の嫡子・忠通です。忠通と頼長は異腹の兄弟で、忠通に男子がなかったため、頼長は兄忠通の猶子となっています。

で、崇徳帝の后は忠通の娘、聖子なのです。だから、得子が産んだ御子が崇徳帝の養子になるということは、聖子の養子になることでもあって、その子が天皇になればその外戚として威をふるうのは聖子の父である忠通になる。

だからこの縁組みは忠通の利になると表面的には見えるのだけれど、その裏には鳥羽院の深謀遠慮が。

崇徳帝と聖子の間に子はなく、身分の低い女との間にやっとできた御子は得子の養子になる。なんでかっていうと「身分低い女」の子のままでは親王宣下も受けられないからなんだけど、これってよく考えたら別に聖子の養子でいいわけだよね。なぜ得子のもとに取られるのかといえばそれももちろん深謀遠慮で。

鳥羽院の意志により崇徳帝は位を逐われ、得子の産んだ近衛帝が即位。得子は皇后に。近衛帝は崇徳帝の「養子」になっていたけれど、、御譲位の詔には「皇太子に譲る」ではなく「皇太弟に」となっていた。つまり新帝の後見を務める「父」は崇徳帝ではなく鳥羽院ということ。僕の時代になるんだよね、と思って譲位をうべなった崇徳帝は謀られたと。

「謀ったな、シャア!」

…いえ、何でもありません…。

新帝が「皇太弟」であるということは、崇徳帝の后・聖子の父忠通も「外戚」ではありえない。聖子の養子、つまり崇徳帝の「皇太子」としてなら忠通はその「祖父」になるが、「皇太弟」なら何の関係も持てない。

これが、さっき出てきた“そのためには、御子を一時的にお授けになり、後になって”、ということなのですね。

鳥羽院は忠通を、というか、摂関家に力を持たせたくない。自身が「御世第一の権力者」であるためには、摂関家は邪魔でしかない。もちろん、得子の産んだ子を帝位につけ、得子を「皇后」にしたい、というのが一番の願いだったのだろうけど。

いかなるご寵を得ようとも、女の序列は、その父達の序列に準ずる。立后は、摂関家の娘にしか訪れなかった。立后の諍いとは、女達の諍いではなく、女の父達の諍いだった。 (P148)

それが鳥羽院の意志によって変わる。身分の低い女、しかも後ろ盾となる父を欠いた女・得子を「皇后」にした鳥羽院。

「仁慈の敵は、愛なのである」という6巻に出て来た言葉が染みいりますね。「愛」という私心が、世のありようを狂わせていく。「天皇」という最高の地位についても、「自分の愛する女」を好きに后にはできなかった、それ以前の仕組みが果たして「正しかった」のかどうかはわからないけれど、「愛する女」を后にのぼせたそのことが、様々な波紋を生み出していく……。

得子に負け、すっかり過去の人となっていた待賢門院は45歳で死去。鳥羽院と待賢門院の間の皇子で、崇徳院にとっては「弟」(実は異父弟)になる雅仁親王(19歳、後の後白河帝)は崇徳院のもとへ。

やがて得子は、鳥羽院の第四皇子であり崇徳院の弟宮である雅仁親王の男御子までも、その養いの御子とする。(中略)皇位継承の可能性を持つ御子達をすべて「我が子」となしえて、皇后得子の力はなによりも強大になった。 (P152)

父を欠いた哀れな下級貴族の娘だったはずが、あれよあれよという間に御世第一の力を手に入れてしまった。

皇后得子は、近衛帝のご元服を境に、美福門院の院号を得る。保元の乱とは、この美福門院と藤原頼長の戦いなのである。 (P153)

というところで長くなったので、頼長の話は次回へ。