ドストエフスキー
『二重人格』/ドストエフスキー
先日、宝塚観劇の前に大阪で途中下車して梅田の丸善&ジュンク堂へ行きました。
ああっ、おっきな本屋さん!!!
ずらーっと並んだ本棚の間を歩くのって、どうしてあんなに幸せなんでしょう。
あまり時間もなかったので、コミックフロア、児童書フロア、そして文庫フロアしか見てないのですが、岩波文庫やハヤカワ文庫、創元推理文庫がいっぱい並んでいるの、嬉しいですね。
で、その岩波の棚で買ったうちの1冊。
「あら、ドストエフスキーだわ」と思って手に取ると、解説に「現在ではよほどの愛好者でないかぎり、その存在すらも知らない人が多いが、ドストエフスキーの文学を理解するためには云々」と書いてある。
別に私は理解するために読んでるわけじゃないけど、「ドストエフスキーが好き」と自称している以上、そしてその存在を知ってしまった以上、読まないわけにはいかない。
ええ、実はまだ「死の家の記録」なんかも読んでないんですけどね。
『二重人格』は、『貧しき人々』に続く、ドストエフスキーの2作目。ドストエフスキーはヒットした前作以上に、この作品に自信を持っていたそうなのだけど、いざ発表してみると世間の評判は悪かったそうな。
うん、まぁ、わからなくはない。
「愛しいわたしのワルワーラさん!」という、貧しい生活の中でも互いの存在を支えに…みたいなお話に喝采を送った読者としては、「何これ?」でしょう。
『二重人格』は、『地下室の手記』に似たお話。
小心の小役人が、その小心ゆえに精神を崩壊させていく。『地下室の手記』の主人公の方は自意識過剰を突き詰めたら意外としぶとく生きていけちゃった、みたいな感じなんだけど、『二重人格』の主人公は、自意識過剰が昂じて「もう一人の自分」を生み出してしまう。
タイトルは「二重人格」になっているけど、いわゆる「24人のビリー・ミリガン」のような、一つの肉体にいくつもの人格が宿ってしまう、という話ではない。
原題はロシア語で「ドッペルゲンガー」を意味するものらしい。
ドッペルゲンガー。「分身」。一つの肉体に多重の人格が宿っているのではなく、肉体(実体)が複数ある。
主人公のゴリャートキン氏はたいそう小心で、自意識過剰で、もう最初っからすでに神経症気味。読むのがかなりウザい(笑)のですが、いよいよ致命的な失敗をしでかしてしまい、「もう一人の自分」を現出させてしまう。
いや、ゴリャートキン氏にとっては、「なぜだか自分そっくりな奴が現れてしまう」であって、決して自分で望んだわけでもなんでもないんだけども。
だってその「新ゴリャートキン氏」はことごとく本物のゴリャートキン氏の邪魔をするんだもの。職場に現れて本物の得るべきはずの「上司の覚え」を奪い、レストランではそっくりなのをいいことに無銭飲食して本物のゴリャートキン氏に勘定を払わせ、色々な場面で本物の氏を破滅へと導いていく。
どうせ「もう一人の自分」を生み出すのなら、自分のやりたいこと、やりたくてもできないことをさせるとか、2倍仕事が捗るとか、「いい方」に使えるといいのに、そうじゃないんだよね。
「やりたいこと」がちょっと大胆な、違法に近いことなら、「もう一人の自分」がのびのびとやりたいことをやってくれた結果、そっくりな自分が逮捕される、ということにもなるけれど。
ゴリャートキン氏の悲劇はそんな生やさしいものじゃないのだ。
いやらしい根性悪の「もう一人の自分」に翻弄され、どんどん精神的にヤバくなっていき、周りからも見捨てられ、あげくに……。
もう本当に、どうしてドストエフスキーってこんなうまいんだろう。
心の中ではいっぱい色んなこと考えて、「もう一人の自分」への怒りや対処法など、結局は堂々巡りにすぎないにしても「言葉数」多く、それなりに筋の通ったこと考えられてるのに、周りの人に対して話しかける時にはもう全然ダメなゴリャートキン氏。
その「支離滅裂さ」、言いたいことの半分どころか、聞いている者には何のことやらさっぱりわからないその「筋の通らなさ」。
読んでてホントもどかしくてイライラするんだけど、でもそうだよね。しどろもどろになっちゃうもんだよね、もしもゴリャートキン氏のような「もう一人の自分に存在を脅かされる」なんて状況になったら。
ゴリャートキン氏自身はいたって真面目に苦しんでいて、まさか自分が狂っているなんて思っていなくて、周囲の人間の方の対応が「おかしい」「間違ってる」「どうしてわかってくれないんだろう」と思ってる。
その息苦しいまでの哀れさ。
ドストエフスキー、ホントにうまい。
だから私は、『貧しき人々』よりも『二重人格』の方が面白かった。
「狂気」って好きだし。
もちろん読むのはなかなかしんどいし、さすがに「この作品大好き♪」っていうわけでもないけど。
「狂ってる」のに慣れてない人は読まない方がいいと思う。気分悪くなるかもしれないから。
ゴリャートキン氏も「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に囚われた人。
自身が虎に変化するのではなく、「もう一人の自分」を生み出し、その「もう一人の自分」に翻弄され、破滅していく。
新ゴリャートキン氏は、ただの幻像ではなく、実体を持っているように見える。周囲の人間にもちゃんと見えていて、会話すら交わしているように描かれる。
もしかしたらすべてはゴリャートキン氏の妄想かもしれないけれど、ドストエフスキーの筆はどうとでもとれるように、夢かうつつかを区別しない。
いずれにせよ、ゴリャートキン氏は「もう一人の自分」によって袋小路へ追い詰められる。
自分の敵は他でもない自分。
過剰な自我。
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