やっと読み終わりました。文庫では3分冊の「キリストの勝利」、1冊目を手に取ったのは9月で、9月の半ばには2冊目に突入していたのに、なかなか読み進めず。

途中、図書館で借りた児童書に寄り道したこともあるし、何より全15巻中14巻目のこの「キリストの勝利」、タイトル通り「古き良きローマ」が完膚無きまでに壊されるお話なので、読んでて楽しくないんだよねー。

塩野さんの書きぶりはもちろん読みやすいし、いったん読み始めれば引き込まれる「面白さ」なんだけど、「わくわく♪」っていう面白さじゃないんだ。「ああ、好きだった“ローマ”が消えてしまう」という悲しさ、わびしさ、せつなさばかりが募る。

すでに前作「最後の努力」でコンスタンティヌス帝による「ミラノ勅令」は出されてしまっている。(前作の感想記事はこちら

ローマ帝国は「キリスト教」の権威を取り込む方向へ大きく舵を切って、結局「キリスト教に取り込まれ」、終焉を迎える。

その前に「背教者ユリアヌス」の抵抗があって、彼のことを書いた部分は本当に涙なしには読めないというか。

「背教者」だなんて、ひどいよなぁ。

皇帝になる前のユリアヌス君は、ずっと幽閉同然で生きてきて、何の経験もないにもかかわらず、蛮族の撃退及びガリアの安定になかなかの腕を見せる。

大帝コンスタンティヌスの子、コンスタンティウスってのがホントいけすかない奴で、自分のライヴァルになりそうな親族をみんな粛清しちゃって、ユリアヌス君なんか親も殺され、異母兄も殺され、自身も二十歳まで隔離幽閉されて。

それが「他に誰もいなくなっちゃったから」という理由で(自分で殺したくせに…コンスタンティウスっ)副帝として引っ張り出され、結婚させられ、ガリア平定という難題に立ち向かわされ、あげく「背教者」として「全部なかったこと」みたいな後代の扱い。

あまりといえばあんまりだよね。

幽閉されている間ギリシア哲学に親しみ、「学問の徒」であったリユリアヌスは、蛮族を斥けることに成功したのみならず、ガリアの内政面でもがんばっている。

ユリアヌスはそれ(=住民が自分自身の努力で生きていく意欲を引き出すこと)を、法の公正な執行と、徴税の公正な実施の二つによって実現しようと考える。 (38巻P196)

第一は、出費のムダの解消と既存の費用の節約。ムダはあらゆるところにあった。(中略)自室には暖房さえも入れさせなかった。第二の政策は税の徴収の公正。(中略)政策の第三だが、特別税による増税どころか、既存の税の減税を命じたのである。 (38巻P200)

いやぁ、もう、どこかの国の上の方の人に聞かせてあげたいような話じゃないですか?

税金の話もこの前の巻のところで「アウグストゥスの時とはずいぶん違うことになっちゃってたんだよー」ということが詳しく述べられていたんですけど(おさらいはこちら)、さらにこの時代、コンスタンティウス君が「聖職者になっても私有財産を持っていてもいいよ」「しかも聖職者になれば非課税になるんだよ♪」なんてことを決めちゃっていて、お金持ちは脱税目的で聖職者に転向し、一旦聖職者になったら「職業の世襲化」で子や孫もずっと聖職者、ずっと非課税。

……税金どこから取るの?って言ったらもちろん貧しい農民から「狭く厚く」むしりとるのさ、ということになっていたらしい。

そりゃキリスト教徒的には万々歳かもしれないけど、国家経営的にはねー。どうなのよ。

それでなくてももうローマ帝国はぼろぼろで、コンスタンティウスの周りには「宦官」がいて、ないことないこと皇帝に吹き込んで好き勝手する、「一体どこの国の話だよ」って有り様。

皇帝になったユリアヌスが「古き良きローマ」へ戻そうとがんばったのは、褒められてしかるべき偉業だと思うのだけど。

「背教者」。

そんなふうにしか言われないなんてね。

ユリアヌスは別にキリスト教を弾圧したわけではなくて、「ミラノ勅令」時点の状態に戻そうとしただけ。

ローマ古来の神々、エジプトやシリアの神々も、あらゆる信仰の存在を認めただけ。

だが、それを信じている人の信仰心は尊重したのである。お稲荷さんを祭った神社の前を通ってもお参りはしないが、その前で不敬な振舞いはしないということだ。この種の寛容とは、多種多様な考えや生活習慣をもつ人間が共に生きていくうえでの智恵の一つなのだが(もう一つには法律がある)、それが失われつつあるのを見かねての、ユリアヌスが発した「全面的な寛容」であった。 (39巻P71)

大帝コンスタンティヌスは、政局の安定と世襲の正当性を担保するために「キリスト教の権威」を求めた。

「人間」による権力の委託ではなく、「神」による委託。

「人間」に発する権威なら、それは「人間」によって剥奪される。事実あっさり殺されて廃位されたローマ皇帝は大勢いる。

「神」という絶対の権威。

もちろん「神」は何も言わない。現実に口を利くのは「神意を伝える」とされる聖職者達。

大帝コンスタンティヌスは「神」を利用することで帝国の安定を図ろうとしたけれども、ユリアヌスの後、ミラノ司教アンブロシウスによって逆に「神に利用される」ことになる。

非課税だのなんだのと優遇して、しかも司教の前では皇帝であろうと教え導かれるべき「羊」にすぎない、というロジックを受け容れてしまった以上、当然の成り行きだろう。

ユリアヌスは31歳の若さで戦場に倒れる。皇帝としてはたった19か月の在位。

もしも彼がそんなに早く死ななかったら、もしかしたらその後の「キリスト教国教化」はなく、現在のヨーロッパ、ひいては世界情勢は大きく変わっていたのかもしれない。

古代ローマやギリシャの神々がなおも生き生きと活躍し、キリスト教が「たくさんある宗教のうちの一つ」にしかすぎないような世界。

一体どんな世界だったことだろうか。

宗教が現世をも支配することに反対の声をあげたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気づいた人ではなかったか、と思う。 (39巻P178)

この意味では、ユリアヌスに投げつけられ、今なおこの通称でつづいている「背教者」という蔑称は、実に深い意味のこもった通称とさえ思えてくる。もしかしたら、三十一歳で死んだこの反逆者に与えられた、最も輝かしい贈り名であるのかもしれない。 (39巻P179)

異教に対しての「キリストの勝利」。

そして「皇帝に対して」のキリストの勝利。

元老院議場から撤去された「勝利の女神像」の返還を求めて、シンマクスという人が皇帝に送った書簡が紹介されている。

なぜならわたしには、多くの人々にとっての心の糧が、ただ一つの神への信仰のみに集約されるのは、人間の本性にとって自然ではないと考えてもいるからです。
われわれ全員は、同じ星の下に生きている。われわれの誰もが、同じ天に守られている。同じ宇宙が、われわれを包んでいる。その下に生きる一人一人が拠って立つ支柱が異なろうと、それがいかほどの問題でありましょうか。ただ一つの道のみが、かほども大きな生の秘密を解けるとは思われません。
 (40巻P100-101)

泣けるなぁ。

もちろん「勝利の女神像」は還ってこない。

他のどんな神像も、神殿も、家庭内で私的に祖先や守護神を祭ることさえも禁止される世の中になる。

国破れて唯一神あり。

キリスト教化しなかったとしても、大きくなりすぎてしまった「ローマ帝国」はいずれ滅びる運命だったのかもしれない。でも、「ローマ的」なもの、敗者をも同化させ、他者に寛容な、「人間」を中心に据えた「ローマ」が消えてしまうのは、「帝国」という国家が消える以上にせつない。

社会が複雑化すればそれだけ問題も多く、難しくなり、「人間」同士の交渉だけではなかなかうまくいかなくなるだろう。

でも、「人間の上に君臨する唯一絶対」のものを持ち出して解決しようとするのは、進歩ではなく退化のように思える。

……アンブロシウスが編み出した画期的な手法に「聖人の大量生産」というのがあって、そこの説明の箇所で思わず苦笑してしまった。唯一絶対の神に願うには些少な身辺雑事をお願いするために、聖人を大量生産した、って、それ別に「八百万の神」でいいじゃん。

“ただ一つの神への信仰のみに集約されるのは、人間の本性にとって自然ではない”


もうここまでですっかり「ローマは終わってしまった」感があるのだけど、次はいよいよ最終巻「ローマ世界の終焉」。

文庫になるのは来年9月(ということは私が読むのも来年9月)。

はぁ、寂しいなぁ。