はい、さらに続きです。(その1はこちら、その2はこちら

途中実家に行ったり、内田センセの『街場のアメリカ論』を読み始めたりしたせいで、何書こうと思ってたのか思い出せません(笑)。

この間は「丁寧語」問題と田山花袋の「なさけない私生活暴露」=「私小説」が日本の文学の主流になってしまった、というところまででした、たぶん。

今日はやっと二葉亭四迷の話です。たぶん。

教科書的には「言文一致体の確立者」として有名な四迷さん。『浮雲』を発表したのは明治20年(1887年)。

今回も青空文庫内該当作品にリンクを貼っておきますが、『浮雲』の文章は「これで言文一致?めっちゃ読みにくいんですけど」という感じ。

で、この、教科書的には画期的な文学史上のメルクマールである『浮雲』の後、四迷さんは小説を書かない。

翌明治21年(1888年)に四迷さんが発表するのはツルゲーネフの『あひびき』『めぐりあひ』の翻訳。四迷さんはロシア語にご堪能だったのですね。

「まえがき」部分に「私の訳文は我ながら不思議とソノ何んだが、これでも原文はきわめておもしろいです。」なんて書いてあるのがなんともおかしい。

ロシアの可憐な少女が「おとっさん」とか言ってるんですから確かに「不思議とソノ何です」が、当時の「普通の庶民の日本語」で翻訳しようとすれば、「おとっさん」になるのは当然で、それこそが「リアリティ」というものだったのでしょう。

なさけない私小説の祖、田山花袋はこの四迷さん訳の『あひびき』にいたく感動したそうで、この翻訳がなければ彼の『蒲団』が生まれたかどうかわからない。

日本語でこういうことを書いてもいいんだ、こんなことが日本語で表現できるんだ!と思わせた四迷さん訳の『あひびき』。

『浮雲』を書いた時の四迷さんには「文体の模索」はあっても、「何を書きたいか」という「中身」がはっきりしていなかった。だから「中身」が先にある「翻訳」の方が出来が良くて、当時の青年達には訴えるものが大きかった。

そして田山花袋は『蒲団』を書き、同じ年に四迷さんは『平凡』を著す。

その前年に久しぶりに書いた小説が評判が良かったらしく、2作目を書くことになったらしい。

漱石の『虞美人草』の連載が終わった翌日に、四迷さんの『平凡』の連載が始まったのだとか。

時に明治40年(1907年)。『浮雲』からは20年が経っている。

その間には樋口一葉がいて、『金色夜叉』があって、国木田独歩や徳富蘆花、泉鏡花も出て来て、明治38年には漱石『我が輩は猫である』。

松田聖子の映画でお馴染み『野菊の墓』は『平凡』の前年の作品だったりもします。

文学史年表を繙くまでは二葉亭四迷さんなんてずっとずっと昔の人、という気がしていたんだけど、漱石先生とも同時代人(漱石先生の方が3歳年下らしい)。あの人もこの人も明治の作家か、と思うと、『浮雲』以後の文学の発展というか進化というか、動きのスピードというのはけっこうなものだなぁ、と思います。

まぁ20年というと、昭和が終わってから今までが22年で、「十年一昔」なら「二十年はもっと昔」に違いなく、その間に色々な変化があるのは考えてみれば当たり前。まして「明治」という「新しい時代」の「20年という時間」は相当に濃密なものだったでしょう。

同じ作者が書く明治20年の『浮雲』と、明治40年の『平凡』が、まったく違った印象・形態の作品になるのも不思議なことではない。

(ちなみに私が繙いている文学史年表は1984年発行の新修国語総覧新訂増補版。京都書房。高校で使ってたもの。なんでも置いておけば役に立つ。だから足の踏み場がなくなるんだがwww)

「新しい書き言葉」の出現により、逆に「話し言葉」もそちらに近づき、「日本語の文章」はだんだんにこなれていく。

言文一致体で一番重要なことは、「言葉を使う人間の思考の成熟」だということである。その用語が――その用語によって語られるべき内容が「我がもの」になっていないと、それを人に対して自在に話し聞かせるということが出来ない――そのベースがあってこその、「話したごとくに書く」の言文一致である。 (P168-P169)

『平凡』の四迷さんは見事にこなれて、自在である。

橋本さんは丸々2章を『平凡』のために割き、四迷さんのテクニシャンぶりをたっぷり解説してくれる。

その引用と解説を読んでいると『平凡』という小説をじかに読んでみたくなるし、引用部分だけでもうっかり泣きそうになったりする。犬のポチを題材にした個所なんて、ホントになんともいいのだよなぁ。

橋本さん曰く、四迷さんは「理論家」で、小説の構造、展開の仕方など、非常によく考えられていて、「今まで読んだことなくてごめんなさい」という感じなのだが、『平凡』がさらにすごいのは、全体が「私小説のパロディ」になっていることだ。

『平凡』は一見すると「主人公の“私”が自分の来し方を語る」、それもあんまり華々しくない、どっちかといえば「なさけない」『平凡』な人生を語る、という作品(つまり「私小説」)なんだけれども、最後の最後にどんでん返しがある。

『平凡』の最後の文章は尻切れトンボで、「…………」だけが延々と続く。そして「実はこれは夜店で拾った原稿で、この後は千切れて存在しないんだ。ごめんね」という四迷さんの言明。

作者である二葉亭四迷さん自身をモデルにした「私小説」だと思わせておいて、最後の最後に「俺の話じゃないよ。俺が書いたんじゃないんだから」と言ってしまう。

もちろん、本当は「夜店で拾った原稿」なんかではなく、全部四迷さんの「創作」であるはずなんだけど、その、「創作」であることを、「嘘」であることをバラしちゃう。

しかし、彼が最後に書いた小説は、自然主義的私小説のパロディであり、と同時に「完璧なる架空の私小説」という高い完成度を持つ小説である。 (P240)

「完璧なる架空の私小説」を書くことによって四迷さんが訴えたかったこと。それは。

つまり、「自分が経験した女との関係が文学になるのなら、そんなものはやめてしまえ!」になって、最後の「文学への拒絶」へと至るのだが (P242)

「自分のことを書くその書きようが分からない男が、女という他人のことを、“関係を持った”という理由だけで、“自分”なる男を語る道具にするのはやめた方がいい」――これが『平凡』全体を通して言われていることだと思う。 (P244-P245)

なんと素晴らしい!

『平凡』発表の翌年、明治41年に四迷さんは赴任先のロシアで病に倒れ、帰国途中ベンガル湾上で亡くなってしまう。

もしも生きていたら、また小説を書いただろうか。

どんな小説を書いただろう。

明治41年、四迷さんはまだ45歳の若さだった。

……今の私とほとんど変わらない年じゃないの……。

『浮雲』を書いた時はたったの25歳で、45歳にして「完璧な架空の私小説」を書き、「そんなもん文学じゃねぇや!」と私小説にアンチを唱えた人。

今まで知らなくて、本当にごめんなさい。

にしても、どうして『平凡』の訴えは他の文学者達に届かず、「自分が経験した女との関係が文学」がずーっと続く羽目になってしまったんだろう。

もしも四迷さんの訴えが聞き入れられていたら、私だってもうちょっと「日本の近代文学」に親しんでいたかもしれないのに。

みんなそんなに女のことを書きたかったのか……。
 

続刊に期待です!
(『失われた近代を求めて』2巻目の感想はこちら