哲学
『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』/内田樹
「カーリル」を使って借りた記念すべき最初の一冊『他者と死者』、無事読み終わった。
ラカンというのはジャック・ラカン。レヴィナスというのはエマニュエル・レヴィナス。
どーゆー人なのか、ほとんど知らない。内田センセの著作やblogに出てくる人、という知識しかない。
だから、私がこの本を「借りてみよっかな」と思ったのは、ラカンやレヴィナスを理解したいから、というわけではさらさらなく、内田センセは「他者と死者」についてどのようなお考えをお持ちなのだろうか、という興味だけである。
「ラカンの精神分析論を手がかりに、レヴィナスの他者論を読み解く」と帯に書いてあるんだけど、「それを手がかりに内田センセの他者論に耳を傾けたい」というのが私の立場。
だって、先人の書いたものを研究したり解釈するっていう作業は結局、「その中に自分の思想を発見する」ことだと思う。
自分ではうまく言葉にならないことを、先人が言い表してくれているかもしれない。
「自分の言いたいこととちょっとずれてる気がする」「全然逆だと思う」ということから、自分の言葉が紡いでいけるかもしれない。
人間は「自分の見たいものだけを見られる」都合のいい生きものだから、本当はそんなことどこにも書いていないのに、勝手に「私が言いたかったのはこのことだ!」と“答え”を発見してしまうかもしれない。
「いや、俺はそーゆーつもりで言ったんじゃないんだけど」と先人が言っても、おかまいなし。
その人が本当は何を言いたかったのか、その人自身にだって、ちゃんとは答えられないのかもしれないのだから、「それを推し量りながら実は自分の考えを推し量っている」というのは、不敬でもなんでもない、まっとうな「思考」のあり方だと思う。
だから、私がこの本を手に取ったのは、「ラカンの精神分析論を手がかりに、レヴィナスの他者論を読み解く内田センセのお話に耳を傾けつつ、自分の他者論を探り当てる」ためなんである。
なんてことはもちろん嘘で、「他者と死者。ああ、好きそうなテーマだわ」と思ったから借りてみただけ(笑)。
レヴィナスさんの書いたものは大変に難解らしく、この著作で引用されている文章も、ほとんど意味がわからない。
内田センセが優しく丁寧に解説してくれるので、なんとなくわかったような気になるけど、でもたぶん本当のところはあんまりわかってない。
「半分くらいしか呑み込めてない」と思うのだけど、でも面白かった。
普通、「わからない=つまらない」ように思われているけれど、別に「わからなくても」面白い。
きっとそれは私が内田センセの語り口が好きだからなんだろうけれど、でもそれだけじゃないのかもしれない。
レヴィナスさんの「語ること」は難解で、でもレヴィナスさんの「語り」には魅力がある。それはなぜか、というのを内田センセが本文の中で書いていらっしゃる。
私たちがレヴィナスを繰り返し読んで倦まないのは、そこに私たちが日常生活の中で経験する「ことばにならない」ような要素、「哲学的」語彙のうちに回収されることでその痛切さを失ってしまうような論件が、レヴィナスのうちには「謎」のままに維持されていることを実感するからである。 (P241)
なるほど、わかる気がする。
あんまりすっぱり「AはBだ」とやられてしまうと、かえって信用が置けないというか、哲学的な案件に対して安易な解答を与えることは、不誠実なんだな。
「言い切ってほしい」「言い切って“名前”を与えることで安心させてほしい」という時もあるけど、でも実際には、たとえば今自分がどんな感情を抱いているかさえも、一言では言い切れない。
「悲しい」にも色々な程度、種類があるし、嬉しい気持ちもあるけど、でもやっぱり○○のことを考えると手放しには喜べない、とか、自分の感情でさえも言葉で正確に説明するのは至難の業だ。
説明すればするほど「ずれ」ていくこともある。
説明しているうちに、「言葉に引きずられて」最初の感情が違うものになっていくことなんて、いくらでもある。
普通の人は「現実は簡単で、哲学は複雑だ」と考えるが、実は話は逆である。「現実は複雑すぎ、哲学は簡単すぎる」のである。 (P241)
レヴィナスさんの著作はとても複雑だけれども、それは専門家にありがちな、「素人にはわからないように書くことで偉そぶる」というのとは違って、「現実の複雑さ」に対して真摯に向き合っているがゆえなのだ。
だから、わからなくても魅力的。
わからないけど、「嫌」じゃない。
……もちろん、内田センセが書かれた本でなければ手に取らなかったに違いないんだけれど(^^;)
前半が主に「他者」や「師」に関すること。
そして後半が「死者」に関する話。
前半の、特に「師弟論」関連の話は、内田センセの他の著作でもよく出てくる。
以下、印象に残った箇所をいくつか挙げる。
だから、ユダヤ教史を一望すると、同時代には必ず二人の大学者がいて、あらゆる論点について熾烈な論争を繰り広げ、成句の解釈が確定することを妨げていることが知られているのである。(中略)論争が熾烈なのは、この論争の目的が「論争を終わらせないこと」にあるからである。 (P49)
ユダヤ教やキリスト教と言った一神教が好きではない私だけれど、「論争を終わらせないために論争する」「神の叡智を決して一義的語義に回収しない」ユダヤ教のやりかたには、敬意を表さずにいられない。
「答え」を出さないことが重要であるということ。
「開かれた問い」のままにしておくこと。
そして、あなたがあるセンテンスを語り終えたそのときに、私はあなたの口からそのセンテンスが語られる日をひさしく待望していた私自身の欲望を発見するのである。 (P63)
自分の中の「もやもやとしたもの」。それが、相手の言葉によってはっきりと輪郭を持たされる。「あ、私の考えていたこと・知りたかったことはそれだ/あるいはそれではない」と。
でも、本当は「もやもやとしたもの」は「それ以前」にはなくて、「対話」の最中に生成してくるものなのかもしれない。
内田センセの他の著作にも出てきた話だと思うけど、「主体」というのは、実のところ「それだけ」では存在しなくて、「他者」と出逢うことによって初めて生まれるものなのかもしれないのだ。
同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだ。それは同じ一つのことを言う人間はつねに他者だからだ。 (P67)
これはモーリス・ブランショ(って誰?www)の言葉らしいのだけど、なんだかとても面白い。
「それだけ」では存在しえない。「一つの意識」だけでは、思考は生まれない、ということなのだろうか。
聴き取る用意のある者、外部から到来することばを解そうと欲望する者の耳にだけ、ことばは届く、ということである。(中略)ただし、誤解してはならないのは、「聴き取る用意のある者」や「外部から到来するパロールを欲望する者」を、決してコミュニケーションに先立って自存する「情報感度の高い実体」として措定してはならないということである。主体はコミュニケーションに先立って存在するわけではない。 (P119)
「死者論」のところでは、レヴィナスがユダヤ人でありながら第二次大戦中のホロコーストから免れ、生き残ったことが語られる。その「生き残り感」がレヴィナスの思想に多大な影響を与えずにおかなかったと。
生き残った者と生き延びることのできなかった者の間に、納得できる理由があれば、生き残ったことを意味づけることもできなくはなかっただろう。しかし、「どうしてか、その理由は分からない」のである。 (P161)
このくだりを読んでいて、毎日新聞に載っていた高村薫さんの話を思い出した。高村さんが阪神大震災の時に考えたこと。「亡くなった人間と生きている人間を分けるものは何なのか。考えても、その理由は“ない”と言わざるをえない」(原文はこちら)
高村さんは仏教に近づいていったけれど、レヴィナスはユダヤ人で、ユダヤ教徒として、その「意味」を考え、「死者たちを弔う」ために自分の思想を紡いでいった。
ホロコーストや震災などがなくても、生まれてすぐ死ぬ人もいれば、100歳まで生きる人もいる。たまたま日本に生まれてのほほんと暮らしている私がいる一方、たまたま紛争の絶えない国に生まれて、「殺さなければ殺される」ような生き方を強いられている人もいる。
一体何が、私たちを分けるのか。
なぜ私は、まだ生きているのか。
理由はない。
おのれの死がおのれの「現存在の最も固有な可能性である」ことを覚知した人間が善行を行うのではなく、死の切迫によって、存在の彼方を望見した人間がなす行為を総じて「善」と呼ぶという定義の方が、あるいはことの順序としては正しいのかもしれない。 (P248)
私たちは自分がいずれ「死ぬ」ということを知っている。「いずれ」は「いずれ」で、普段はそれが次の一瞬にも起こりうるものだということは忘れて暮らしているけれど(ずっと意識してたら怖くてたまらない)、それでもいつか「終わり」が来るということは知っている。
「終わり」があるということの重要性。
私たちが、誰によっても代替不能のかけがえのない人間でありたい、わずかなりともこの世界に「善きこと」をし残しておきたいと願うとき、私たちは「死んだあとの私」の視点から「今、ここ」の私を眺めるという操作を経由することを避けられない。 (P169)
「死んだあと」という未来から、現在へと流れる時間。
「死」という終わりを意識することで、時間の流れが逆になる。
「自分が死ぬ=無になる」ということが怖ろしくてたまらない私だけれども、「死」という「終わり」が定められてあること、そしてその定めを自覚しているということは、やっぱり「人間性」にとって、「人間の善」にとって、大変に重要なことなのだろう。
花は散るからこそ美しい。
ただ「散る」から美しいのではなくて、「それを定めと知る」人間が見るから、美しい。
それを「美しい」と、人間は感じる生きものだ。
次は「カーリル」で予約したもう1冊の内田本、『現代霊性論』。今日届いたと連絡があったので、明日この本と入れ替わりに借りてくる♪
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