先日ご紹介した『橋本治という考え方』の前段にあたる『橋本治という行き方』。私としたことがどこにもレビューを書いていなかったので、改めてご紹介するべくぱらぱらと読み返しています。

現在は文庫も出ていますが、私が持っているのは2005年に出た単行本。

雑誌『一冊の本』に連載されている「行雲流水録」の2001年7月号から2005年1月号までの内容が収録されています。

2001年というともう8年前。「9.11同時多発テロ」のあった年で、この本には「イラク戦争」に関する言及もあります。

なんか、すでにして「そんなこともあったなぁ」って感じになってるのがとても怖い。

この間も何かの拍子に「そういえばフセインってどうなったんだっけ?」とか家人と話してて。

フセインって、処刑されたよね?

「?」付きで確認しなきゃならないぐらい、もう「遠いできごと」になってしまっている。

「大量破壊兵器」は結局「なかった」ってことになって、イラク国民が戦争前より幸福になっているのかどうかはよくわからない。

あの戦争で流された血は、一体何だったんだろう……。

ということを今更のように考えるのも「ちょっと前に出た本を読み返す」重要な意義のような気もしますが、この本には『「共産ゲリラに電磁波で攻撃されている」とか、わけの分からない理由で、山の中を迷走している集団がいた』という一文も出てきます。

ああ、そういえば。

と、思い出せましたか?

「黒ずくめの組織」ならぬ「白ずくめの組織」だったような気もするけど、詳しいことは私は覚えてない。

重要なのはその「謎の組織」の話ではなく、それをマクラに語られる、『「バカげたこと」について』。

おそらく世の中の大勢の人々にとって、山の中を迷走していた謎の集団のやっていることは「わけが分からない」。彼らにとっては重大らしい「その理由」を説明されても、「はぁ?何言ってんの?」だろうし、「わけわからん」から一歩進んだ、「何バカなこと言ってんだ?」と思う人も、きっと多いだろう。

そう思うのがまっとうでしょ?と私は思うんだけど、最近はここで「価値観が違う」とか「個人の自由」とかいう言葉が出てきてしまう。

いや、まぁね、「電磁波攻撃されて迷走する集団」なんていうのは極端な例なので、「価値観」の問題か!?って言い返せるし、「個人の自由」ったって、明らかに「ハタ迷惑」なことしてれば警察が動くことにもなる。

でもそこまで行かない、例えば学校とか会社とか、親子であってさえも、こっちとしては「そんなのおかしいだろう」としか思えない言動をする相手に、「それは価値観の違いだ」「個人の自由だ」って言われたら。

うっ、とひるんでしまうよね。

親子とか、上司と部下だったりしたら、「時代が違うよ」ってゆーのも、なかなか反論しにくい一撃だったりする。

時代が変わっても、「人間」として変わらない、変えちゃいけないものはあるだろうし、「価値観が違う」なら「違う」で、その「違い」をどうにかすり合わせて、譲歩できるところは譲歩しつつ「周囲とうまくやっていく」ができなかったら、「社会」というものは成り立たない。

橋本さんは言う。

「価値観の違い」という思い込みが、「批判」を成り立たなくさせる。その結果、「論理の矛盾」が指摘されなくなる。「論理の矛盾が指摘されない」とは、「論理を構築する必要を感じないまま放置される」ということでもある。

「なにバカげたこと言ってんだ」は、共生関係から生まれる批評言語である。これを希薄にさせてしまうと、困ったことになるだろう。(どちらも単行本P134)

「批評」とか「教養」とか「アカデミズム」といったテーマがよく取り上げられていて、「教養と標準語」という章には

私にとって、「教養」は標準語と同じようなものである。「標準語と同じようなもの」と考えると、「教養」のあり方が理解出来る。(単行本P84)

と書かれてある。

おおっ、なるほど。

今は大学から「教養課程」というのも消えてしまったとか聞くのだけれど、「教養」というものはやっぱり必要なものなんだ。

それこそ個々人にはそれぞれの「価値観」があって、互いに相容れない部分も多いだろう。でも人は一人では生きていけなくて、「社会を形成する生きもの」だから、「それぞれ」でない、「共有されるベースの価値観」みたいなものがなかったら、てんでんばらばらで意思の疎通ができない。

「方言」と「標準語」は、どっちが優れているというものではない。「自分の生活に根ざした言葉」と、「生活圏の違う人間ともコミュニケートできる言葉」という、どちらも重要で必要なものだ。

教養を捨てることは、自分の現在だけを成り立たせる興味本位の「雑」だけでよしとして、人としての思考のフォーマットを捨てることになる。そして、「雑」を吸収しえない教養だけでよしとしてしまったら、そこでは個なる人間の「生きることに関する実感」が捨てられてしまう。方言と標準語がそうであるのと同じように、「雑」と教養もまた、互いに環流してぐるぐると回るものだと思う。(P93)

「教養」って、つまりは「マナー」なんじゃないかな。

「なにバカげたこと言ってんだ」という共生関係の批評言語、って話にしても、人が社会生活を営む上で必須の「マナー」というものはあって、「個人の自由」と「マナー」はぐるぐると回るものなのだろう。

どちらかだけでは、うまくいかない。


橋本さんの本を読むと、やっぱり色々考えさせられます。