先日、『橋本治という行き方』を読み返している、と書いたのですが。

どんどんと読み進んでいくと、『百億の昼と千億の夜』に対する言及が出てきたのです!

「俗の豊穣」と銘打たれた章のところで、三島由紀夫を読んでいる時に橋本さん、「仏教って、やっぱりなんかすごいな」と思ったらしいの。

で、「なんで“やっぱり”がつくんだろう。この前に“仏教はすごい”と思ったのはなんだ?」と振り返ったら、光瀬龍さんの『百億の昼と千億の夜』だったと。

おおおおおっ、なんという偶然でしょうか。

こないだ読み返したばかりの本がこんなところに出てくるなんて、もうホントにこの絶妙のタイミングは何? 運命!?(笑)

というか、なぜ私は最初に『橋本治という行き方』を読んだ時に、『百億』を読み返そうと思わなかったのか……。2005年当時は、まだまだ新しい本で読みたいものがたくさんあったのかな。もう既に「橋本さんしか読んでない」と言っても過言ではない時期だと思うけど。

『百億』に対する“仏教的な”という書評に対して、当時大学生だった橋本さんは、

“仏教的な”じゃなくて、これは“仏教そのもの”なんじゃないのか(P212)

と思ったらしい。

その文章の前には

「否定しまくっても自分は結局ピンピンしている」という、そのタフさに「すごい」と思った。(同上)

と書かれてある。

つまり、「仏教」というのは「否定しまくっても自分は結局ピンピンしている」という、そーゆー「論理」なのかな(笑)。

「仏教」は「宗教」ではなく、「論理」だってゆーことも、この本のどっかに出てきた。

面白いのが、「仏教」と「儒教」の違い。

「なぜ?」「なぜ」とどんどんつっこんでいくのが仏教で、

仏教はつっこむことをよしとするが、儒教はつっこまない思考をよしとする(P217)

うわ~、なるほどぉ。

これは橋本さんオリジナルの考えではなくて、「明治初期の儒学者がこのことをいともあたりまえに理解していた、そのことにびっくりした」という文脈で出てくる。

昔の日本の「俗の理解はそんなにすごい」と。

あと、最後に『古事記』のお話が出てきます。

橋本さんは子ども向けの「少年少女古典文学館」というシリーズで『古事記』 を現代語訳なさっておられるのですが(のちに、大人向けに再編集された単行本も出ています)。

橋本さんの解釈によると、「日本の神話」はとても現実的で、「私たちはもう生きて存在している」ということを前提に成り立っているのだそうだ。

「神道」というと「国家神道」というふうになって、靖国神社とか色々ややこしい問題に繋がってしまうのだけど、そもそものはじめ、日本人が求めたのは「神」というよりも、「自然に囲まれてすでに存在している我々」を改めて確固とさせることだったのだと思うと、「やるな、日本人」と思えて嬉しい。

橋本さんの『古事記』、ずーっと読みたい、読まなきゃ、と思いつつ、未だ手に取れていない。

いい加減読まなくちゃ。