こんなこと絶対誰も考えるはずもないから、私がここに書く(笑)。

橋本治さんとGacktさんの共通点。

お2人とも、本当にonly oneの方。

常人ではない。

存在自体がファンタジー。

そして、お2人ともそれぞれに、「橋本治というジャンル」「Gacktというジャンル」というふうに括るしかない、世俗のつまらない境界線なんか軽々と飛び越えて、なんでもやってのけてしまえる。

『橋本治と内田樹』読んでると、「橋本さんの本には書評がない」「批評家は橋本治を無視する」「文壇には居場所がない」みたいなことがさんざん出てくる。

あんまりにも色々なことをやられているから、既存の枠組みでは橋本さんを語れない、扱えない。批評する方に、それだけのキャパがない。

だから、「あれはなんか別物」みたいに「異端」としてほっとかれてたんだろうと。

最近は小林秀雄賞とか柴田錬三郎賞とか毎日出版文化賞とか受けられて、「やっと世の中が橋本治のすごさを認めたか」って感じになってきたけれど。

橋本さんって、もともと絵を描いてらしたし、小説に評論に、謎の星占い本から『源氏物語』に『平家物語』、かと思うと算数の本で、セーターの編み方まで書いて、『ヴェニスの商人』を薩摩琵琶にしてしまい、芝居の演出なんかもされて。

かつては『明星』のグラビアも飾られましたし。

橋本治さんの肩書きは一応(?)「作家」だけれども、ここまでジャンルを越えられると、「橋本治という職業」をやっている、と言った方が正しいよね。

Gacktさんも、そーゆー人じゃないですか。

Gacktさんの「音楽」って、ロックとかなんとかいうジャンルを越えて、「Gacktという音楽」だって、前に雑誌でもおっしゃっていたような気がするんだけど。

映画も撮って、役者もやって、小説も書いて、CDのジャケット写真からライブの舞台装置、すべてひっくるめて、「Gacktさんの表現」。

Gacktさんの中にある「物語」を表現するのに、たまたまメインで「音楽」が出ているだけで、世の中は彼を「ミュージシャン」と位置づけるけど、でも本当は「総合芸術家」というか、「Gacktという職業」「Gacktという在り方」としか言いようがないような。

だから、Gacktさんもたぶん日本のミュージックシーンでは「異端」でしょ?

既存の「音楽」の枠組みの中にいる人は、Gacktさんをどう扱ったらいいかわからないと思う。

ま、でも、だからこそ、「ざまぁみろ!」って感じで、私は嬉しかったりもするんだけど(笑)。

「みんなに分かられてしまう」「大衆化する」っていうのは、それだけ「つまんない」ってことだもの。

『橋本治と内田樹』の中で、橋本さんが

「名優がいなくてもいい、それが大衆参加だ」という形でエンターテインメントが崩れてしまったんですよね。大衆参加が実はエンターテインメントの拡散になってしまって、エンターテインメントは広がったけれど、エンターテインメントはない(P288)

とおっしゃられています。

そうやろなぁ、ほんと。なんでみんな「そのへんにいるような人」が好きなのか全然わかんない(笑)。

あと、ね。

「自分の『生きる』という誇りだけは一貫しています」(『橋本治と内田樹』P217)とかいう橋本さんの言葉。

「生きる」ということに対して、「自分のやるべきことをやる」みたいな「肚のくくり方」みたいなものが、Gacktさんと通じるとこあるな、って思います。

「覚悟」というか。

ないもんなぁ、そんなの。

隙あらば「責任逃れ」しようと思ってるもん。

だから、お2人の作品に触れるたび、「私ももっとしっかりしなくちゃ」って思う。「ちゃんと生きなくちゃ」って。